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<JTマーヴェラス 栄光までの5年間>
吉原知子が伝えた勝者の哲学。 

text by

田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

PROFILE

photograph byTakuya Sugiyama

posted2020/05/07 11:00

<JTマーヴェラス 栄光までの5年間>吉原知子が伝えた勝者の哲学。<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

選手同士で指摘、育ったチーム力。

「『負けたまま終われない。絶対にこのチームで勝ちたいから、私たちは辞めません』と。それなのに私が辞めるなんて、何を言っているんだ、と思うじゃないですか。選手たちが『絶対一番になる』と言うなら、絶対に勝たせないといけない。勝たせる、できる、と自分に言い聞かせました」

 就任1年目を彷彿させるように、練習時に状況判断や1本1本の精度にこだわり、その都度「それでいいの?」と追及する。ただ、就任当初と決定的に違ったのは、もっとこうしたい、という要求を吉原だけでなく、選手同士でも指摘し合うようになったこと。小川が言う。

「パスが返って、いいトスが上がって、ブロックも1枚なのに決められなかったら、『今のは絶対決めてよ』と。そこを『いいよ、いいよ』で流してしまったら、その選手も試合で同じ状況になった時に困るし、負けるかもしれない。こんなことを言ったら嫌われるとか、後先のことなんて考えていられない。勝つために全員が必死でした」

 とはいえすべてが、厳しさばかりで育つわけではない。ルーキーセッターの籾井あきがまさにそう。重責を抱えながら、全試合に出場した籾井を支えたのが、セッターのチーム力だった、と田中瑞稀は言う。

「もっとこういうトスが欲しいとか、勝負するポイント、アタッカーがうまく伝えきれない細かな部分を、(田中)美咲さんや(柴田)真果さん、(山本)美沙が同じセッターとして通訳じゃないけれど、うまく伝えてくれました。籾井がすごく頑張ったのは間違いないですが、実際試合でも苦しい時は真果さんが立て直したり、最後まで籾井のいいところを出しきれたのは、周りの力も大きかったと思います」

吉原が就任して5年「愛溢れるチームに」。

 就任したばかりの頃は互いに関心がなく、グループ分けをして「今から1時間、お茶して何でもいいから話をしてきて」とコミュニケーションの取り方に重きを置いた。体育館に使い終えたテーピングが落ちているたびに「汚い!」と叱りつけたこともある。“説教オバサン”と自らを揶揄しながら、5年で生じた変化に吉原も目を細める。

「誰だって試合に出たいのに、自分が、じゃなく、人を支えることに徹する。美沙は機嫌が悪くなるとわかりやすいぐらい顔に出すし、美咲は周りとコミュニケーションを取るのが苦手で指摘すればすぐに泣く。そんな子たちが、びっくりするぐらい成長して、変化して、チームのために、と尽くしてくれた。コートに立つ選手ばかりでなく、出られなかった選手やユニフォームを着られなかった選手が、点を取った選手以上に大喜びする。誰かのために、と頑張って、本音でぶつかり、喜べる1人1人の存在が、このチームのすべてでした」

 優勝直後の記者会見。チーム内で最もキャリアが長い芥川愛加はこう言った。

「吉原監督が来たばかりの頃は毎日しんどくて、言っていることを理解するのに時間もかかりました。でも今はバレーボールの理解が深まり、仲間への思いやり、愛溢れるチームになった。吉原監督に出会えて、その一員として自分も変化しながら、優勝することができた。これからも、もっといい景色をみんなで一緒に見たいです」

 多くの試合が中止となり、我慢の今も、次の頂を目指す吉原の視線はぶれない。

「1回勝つのも大変ですが、トップに君臨し続けるのはもっと大変。選手にしっかり伝えて、ここからどういう形でまたやっていくのか。じっくり考えます」

 一度頂点に立ったぐらいで、妥協などあるはずがない。今はまだ、最強軍団へとつながる序章に過ぎない。

吉原 知子Tomoko  Yoshihara

1970年2月4日、北海道生まれ。'88年、日立に入団。'95年、イタリアに渡り、日本人初のプロ契約選手に。帰国後はダイエー、東洋紡、パイオニアで活躍。オリンピック3大会に出場。'15年JTマーヴェラス監督に就任。

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