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《1996年決勝 松山商×熊本工》本人が振り返る“奇跡のバックホーム”「お前、あのアウトになったランナーだろう」と言われ続け…
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byJIJI PRESS
posted2021/08/29 06:02
1996年決勝、“奇跡のバックホーム”で熊本工・星子は惜しくもアウトになった
野球に飽きた……その言葉は嘘か本心か。熊本に戻ると野球を振り払うように昼は現場、夜は飲食店で働いた。だが、その先々で『お前、あの時のアウトになったランナーだろう』という声は聞こえてくる。どこへ行っても、「熊本の夏の初優勝にあと数センチまで近づいた男」という事実から逃れられなかった。
だが、悪いことばかりではなかった。24歳で独立すると、名刺がなくとも相手が自分を知っていることで商売も軌道に乗り、バーから居酒屋、唐揚げ屋にキャバクラと20代後半で10軒以上の店を出した。
球審・田中の遺言「あの判定は生涯最高のジャッジだった」
一方、奇跡のバックホームをした矢野は生真面目で内気。努力はするが空回りする、そんな性格を改善しようと、澤田勝彦監督は矢野に毎日ガッツポーズをする練習を課していたという。星子とはまるで逆の性格だ。
矢野も松山大へ進学後、あの決勝の舞台で奇跡を起こした自らの大きすぎるプレーと、本当の実力とのギャップに悩んだ。そんな時に連絡をくれたのが、あの試合を裁いた球審、田中だった。
「あのプレーは間違いなくアウトだ。自信を持ちなさい」
その言葉に矢野は救われたという。
2013年。当時星子が経営していた店に知人が矢野を連れてきた。大学を卒業した矢野は地元の愛媛朝日テレビに入社。記者として高校野球に携わっていた。
17年ぶりの対面。そうは思えないほど二人の間には、古い友人のような感覚が共有されていることに驚いた。
星子が感慨深そうに振り返る。
「朝まで話をして、矢野も同じようなキツい思いをしてきたんだと。そしてこの17年間、あの話をする度、互いを身近に考えてきた。おかげでメンバーより近い存在になっていたように思うんです。それは矢野も同じでしょう。球審の田中さんも……」
田中は3年前に鬼籍に入っていた。知人伝手に聞いた話では、生前本人が書いた「あの判定は生涯最高のジャッジだった」という遺言が、柩の中に納められたという。
「あの場面に出くわした3人は、それぞれ何かを抱えて生きてきた。それが運命だったんでしょうね。ただ矢野と会ったことで、この経験から目を背けては、野球を捨ててはいけない、しっかりと向き合い、人々に伝えなければいけないと感じたんです」