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川崎市の印象を変えたフロンターレ。
レッズを超える日はやってくるか。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byGetty Images
posted2018/12/23 09:00
MVPに輝いた家長昭博(前段中央)をはじめ、ベストイレブンには数多くの川崎の選手が並んだ。
クラブ改革で市民のチームに。
そんな転換の背景にはクラブの改革があった。積極補強でメンバーを入れ替えた2000年、フロンターレの年間予算は30億円に膨張していた。それを2002年には半分以下に削減した。
このとき変わったこと。運営会社名が「富士通川崎スポーツ・マネジメント」から「川崎 フロンターレ」になった。それまでの富士通の100%子会社から、川崎市、フロンターレ持株会、地元企業を株主に加えた。そして「30億円」の予算を組めなくなった代わりに、川崎市民のチームへと生まれ変わろうとした。
その後、J2時代はほぼ横ばいでの経営が続く。しかし、この間に出向社員からプロパー採用への体質改善が進められた。そんな社員たちが(外部に委託することなく)自らイベントの企画や運営を行なうようになった。チーム同様、個性的なフロントはこのとき育てられた。
そしてJ1に再昇格した2005年、現有戦力で挑んだチームは8位(18チーム中)で残留を果たす。ボランチには若くて魅力的なコンビ。その左胸のエンブレムに「FUJITSU」の文字はもうなかった。それでも半減していた年間予算は、気がつけば20億円。2年後にはかつての30億円に達するのだった。
チームが変わり、クラブが変わり、こうして現在へと続く階段をフロンターレは昇り始めたのである。
ホームタウンも劇的に変わった。
変わったのはチームとフロントだけではない。もしかしたら、もっとも劇的に変わったのはホームタウンだったかもしれない。
等々力競技場のスタンドから見えるスカイラインに変化が起きたのはフロンターレがJ1に再昇格して少し経った頃だ。武蔵小杉駅周辺の再開発がスタート。タワーマンションが建ち始めたのである。
優勝争いの常連になった2000年代後半には風景だけでなく、雰囲気も変わり始めた。タワーマンションをはじめとした住宅だけでなく、大型商業施設や公共施設が誕生。道路が拡幅され、広場ができ……。
そこに“かつての川崎”のイメージはない。