酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
イチローの成績に肉薄した日本時代。
松井稼頭央の数字が異次元に凄い!
posted2017/12/20 11:30
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
AFLO
マイアミ・マーリンズをFAになったイチローの去就がまだ決まらない。気をもむことではあるが、一方で、かつてイチローの好敵手だったベテラン選手が、来季も現役を続行することになった。
楽天を自由契約になり、西武にコーチ兼任で復帰が決まった松井稼頭央だ。
もう知らない人も多いかもしれないが、松井稼頭央といえば西武の全盛期、打って走って守って、ぶいぶい言わせていた選手だ。
MLBに移籍して、ビッグ・マツイこと松井秀喜に対して、リトル・マツイと言われた。
NPBに復帰後は、楽天でベテランらしい味を出していた。
松井稼頭央は色々な意味で、日本の野球史においてエポックメイキングな選手だった。そんなリトル・マツイの野球人生を振り返ろう。
PL学園での甲子園出場は1試合でもセンス抜群。
松井稼は大阪府東大阪市若江に生まれる。この地域には後に司馬遼太郎記念館ができて、ちょっと文化の香りがしだしたが、どっちかといえば下町。夏になれば河内音頭が聞こえてきそうな土地柄だ。
だから、稼頭央なんて「儲かりまっか」風の名前を付けたのか? いや、これは本名ではない。本名は和夫といたってノーマルで、稼頭央はプロ入り1年目に改名したもの。本人の並々ならぬ意気込みが感じられる。
高校3年間はPL学園でその実力を磨いた。1年時から野球センスは抜群で、投手としてベンチ入りしたものの肘を痛めたこともあり、甲子園出場は1年生の終わりの1992年センバツのみ。それも準々決勝の東海大相模戦に先発して2回2/3を投げて被安打2自責点1、打者としては7番で1打数0安打に終わったのが、甲子園での全記録だ。
しかし、素材は高く評価され、'93年のドラフト3位で西武に入団。その時にはすでに内野手転向が決まっていた。