野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
最年少15歳で阪神に指名と、その後。
辻本賢人、再挑戦の日々に悔いなし。
text by
酒井俊作(日刊スポーツ)Shunsaku Sakai(Nikkan Sports)
photograph byYoshimasa Miyazaki (Seven Bros.)
posted2016/11/10 07:00
20歳で直面した戦力外から数年。“セカンドキャリア”という意味で、辻本の米国での挑戦は間違いなく財産となっている。
すべてをやり切った野球人生に後悔はない。
メッツでは右肘を故障してメスも入れた。晴れ舞台に立つことはなく、'13年で人知れずユニホームを脱いだ。アメリカ行きを勧めてくれた藪に連絡を入れた。
「もうやりきりました。肘のリハビリも大変だし、もう方向転換します」
「悔いはないか」
不思議だった。もう心は晴れ晴れとしていた。辻本はきっぱりと返事した。
「やるだけやりました」
たまにテレビでメジャー中継を見る。今季、メッツで9勝を挙げた左腕のスティーブン・マッツや7勝の長髪右腕、ジェイコブ・デグロムはかつてマイナーで苦楽をともにした仲間だ。「マッツにね、僕がギターを教えたんですよ」と目を細める。日本人に目を向けると、大リーグ挑戦1年目から16勝をマークしたドジャース前田健太は同い年だし、ヤンキース田中将大にいたっては中学1年時に宝塚ボーイズで、チームメートの強肩捕手だったという。辻本の歩みを知る藪は、見落としがちな足跡を指摘する。
「胸を張っていいよな。マイナーでも、入るのは、とても難しいこと。あの年代の日本人で、誰よりも早くMLBの傘下チームに入ったのは賢人なんだ」
いま、翻訳を仕事にする辻本は「阪神を戦力外になったあと、いろんな人に助けてもらいました」と感謝する。出会いを生かして、ひたむきになった季節だった。阪神で夢破れた男は、誰も知らない「勲章」を手に入れていた。