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早実・荒木、池田・水野、PL・桑田と投げ合った男。
悲運のエース、三浦将明の青春
text by
渡辺勘郎Kanrou Watanabe
photograph byKeita Yasukawa
posted2010/08/13 06:00
'83年夏、3度目の甲子園で力投する三浦。決勝のPL戦では本塁打を2本浴びるも、失投はわずかだった
大会後、検査をすると肋骨の疲労骨折が判明した。
続く準決勝はPL学園と対戦。Y校は終始押し気味に試合を進めながらも、劇的なサヨナラ負けを喫する。悔し涙を流した三浦だが、今では「この試合のことは、あまり印象にない」という。
実は、この大会中、三浦は肩の痛みに悩まされ続けていた。横浜に帰って検査すると、肋骨が2カ所、疲労骨折していたことが分かった。大会前にはすでに折れていたのだ。
だが、三浦はチームメイトには骨折の事実を隠した。肩痛と称してボールは投げず、ひたすら走り込みを続けた。
だが結局、状態の回復は思わしくなく、Y校は「春以上の成績を」と期待を集めた夏、県予選準決勝で姿を消す。
新チームがスタートして、8月中旬に行なわれた福島での合宿では、本調子ではないエースをよそに、仲間たちはマイペースだった。三浦は、当時のY校は自分も含めて「サボリの天才の集まりだった」と笑いながら語る。
3番打者の主将と5番打者が練習帰りに“強制送還”。
「球場から宿舎まで、毎日20キロ以上を走って帰ることになっていましたが、走らないでヒッチハイクするんです。最初は軽トラを止めて荷台に隠れてました。でも、慣れてきて乗用車を止めるようになった。そしたらコーチの車を止めちゃった奴がいて、そいつは強制送還されましたね(笑)」
しかも“強制送還”されたのが、3番打者の主将と5番打者という、チームの主力だったというから驚きだ。
三浦自身は春のセンバツ出場後から、ずっとこう思い続けてきた。
「マグレだと思われたくない。もう一回、甲子園に行きたい」
その思いが叶って、Y校は秋の関東大会で準優勝し、センバツ出場を手中にする。この頃、三浦の故障はようやく癒えつつあったが、ストレートの球速は元に戻らず、変化球でかわす投球術を磨いていった。
そして迎えた'83年春の甲子園。三浦は初戦、強豪・広島商から11三振を奪う力投を見せ、7-2で勝利。その後はバックの好守にも支えられ、快投を続ける。2回戦で星稜、準々決勝で駒大岩見沢、準決勝で東海大一と3試合連続で完封。30イニング無失点を続け、Y校は決勝に歩を進めた。
相手は、前年夏に全国制覇した池田高校である。“やまびこ打線”と呼ばれた猛打に加え、エース・水野雄仁も超高校級。前年秋の県大会と四国大会で、61イニング連続自責点ゼロという記録を作り、甲子園でもここまでわずか2失点。池田の夏春連覇に死角なし、それが戦前の下馬評だった。三浦も試合の序盤から、強力打線の洗礼を浴びる。