THE MIRACLES 1980-2010 奇跡の演出者たちBACK NUMBER
<THE MIRACLES 2008.8.16>“ミラクル”ボルトが覚醒した日~人類最速の男を創った4年計画~
text by
及川彩子Ayako Oikawa
photograph byAFLO
posted2010/04/08 11:30
100mの4日後、200mでも世界新記録で優勝、さらに400mリレーでも金メダルに輝き、一躍世界中にその名を知られることになった
世界最速を決める戦い、男子100m決勝で、胸を叩き、両手を広げながらゴールして金メダルをとった選手など、過去にはいない。ウサイン・ボルト以外に。まるで小学生の運動会に突然ゲスト参加した高校生チャンピオンのように、他の7人のファイナリストに圧倒的な差をつけて彼はゴールを駆け抜けた。
その日私たちが見たものはまぎれもなく「神に愛でられし才能」の結実だった。
将来を嘱望されたボルト少年だが、酷い挫折の経験も。
15歳で世界ジュニア200mを大会史上最年少で制覇し、将来を嘱望されたボルトだったが、栄光までのまでの道のりはけっして平坦ではない。連覇を狙った'04年の世界ジュニアは出場すらできず、アテネ五輪も1次予選敗退に終わってしまった。ケガでシーズンを棒に振ったボルトは、「このままでは潰れてしまう」と、現在のコーチ、グレン・ミルズに助けを求めた。五輪直後のことだ。
最初のコーチ、フィッツ・コールマンは、壮絶とも言える管理主義と過度な練習をボルトに課した。毎日、送り迎えまでする徹底管理。練習は一方的にメニューを組み、有無を言わせずやらせた。結果、成長期にあった体は悲鳴を上げた。タテ社会のジャマイカ陸上界で、コーチの変更はある意味タブーでもあったが、満身創痍のボルトにほかに道はなかった。
同じ練習場所で世界中のトップ選手を教えていたミルズとは面識があり、指導方法を知っていたこと、またアテネ五輪ではジャマイカ代表コーチを務め、何度も会話をしたことが決め手となった。
「負けることを恐れるな」師の言葉がボルトを変えた。
シーズンオフになるとミルズは、まずボルトをドイツの専門医のもとに送り、ケガの原因を見つけだした。診断は、成長期に見られる成長痛とオーバーワークによる疲労だった。国の期待がかかる「未完の大器」を預かったミルズは、ボルトに北京五輪までの4カ年計画について話をする。まずケガを治し、体を作り、そして持久力、スピード練習、技術練習というステップを踏もう、と。
そして、こう話した。
「負けることを怖れるな」
鳴り物入りでプロになり、育成費に国家予算まで投入されているにもかかわらず、結果の出せないボルトに人々は厳しい言葉を浴びせた。街で罵倒されたこともあった。あまりの辛さにバスに飛び乗り、キングストンから5時間以上もかかる故郷トゥローニーへ何度も里帰りした。
「勝負だから負けることもある。だから、怖れてはいけない。でも、逃げるな、自分には負けるな」とミルズは伝えたのだ。
それと、もう一つ。
「ケガと向き合え」とも。
現在2m近い長身のボルトは、その頃もまだ伸び続けていたため、成長痛とはしばらく付き合っていく必要があった。ケガを直すことを第一に考えたミルズは、体作りに専念させる。負荷の大きいスピード練習などは厳禁。距離走や軽めのウェイトトレーニングなどがメインとなり、練習は以前よりかなり楽になった。