詳説日本野球研究BACK NUMBER
早大野球部の“バント伝来”107年目。
高校野球で、その功罪を見きわめる。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph byHideki Sugiyama
posted2011/08/11 10:30
2010年夏の甲子園大会、優勝した興南の2番打者、慶田城開は随所にバントを決め、チャンスを広げる役割を果たした
洗練されたアメリカ式の戦術が日本の野球を進化させた。
◇走者の牽制……以前は二塁に走者がある場合、二塁手は塁上にあって走者を引きつけていたのを、このときより二塁手も普通の位置をとり、遊撃手と呼応して走者を牽制するという新法を伝えた。
◇二塁の刺殺……これ以前、一塁より二塁への走者を刺す場合、捕手からの球はすべて二塁手が扱っていたのを、遊撃手もこれに参画することとなる。
スクイズもアメリカ遠征がもたらした新戦術で、当時は誰もこのプレーを知らなかった。早慶戦に用いて成功してから広く行なわれるようになったという。ちなみに、スクイズは当時、バントエンドランと言われていた。
投球術の面では、チェンジアップ(チェンジ・オブ・ペース)の効用を知ったのがこの遠征の最大の収穫である。外形上のものとしてはワインド・アップが最も相手チームや観客を驚かせた。
米国遠征における最大の収穫は“バント”の技術だ。
早大野球部がアメリカ遠征から持ち帰った財産の数々はその後、日本野球の成長を促す土壌となった。練習方法も劇的に改善され、『早稲田大学野球部 百年史 上巻』は、「幼稚であった本邦野球界がいかに啓蒙されたか」と断った上で、「従来の練習法なるものは殆んど一定の型を成さなかった。早大帰朝後全く面目一新し、打撃練習、投手練習等の後年の秩序ある練習法を教えた」と鼻息が荒い。
早大野球部の日本野球界に対する恩恵はそれ以降も続く。1920(大正9)年に誕生した日本最初のプロ野球チーム、日本運動協会(芝浦協会)の設立に尽力したのは早大野球部OBの河野安通志、押川清、橋戸信の3人である(全員、野球殿堂入り)。現在のプロ野球が発足した当初、まともな球場がなかった東京に後楽園球場を作ろうと尽力したのもやはり河野と押川の2人。日本野球の恩人を挙げろと言われれば、私は躊躇なく「早稲田大学野球部」の3人の名前を最初に出す。
その早大野球部がアメリカから持ち帰った中で、今も強く影響を与え続けているのは、やはりバントである。