カンポをめぐる狂想曲BACK NUMBER
From:関空→ミュンヘン「追悼・富樫洋一。」
text by
杉山茂樹Shigeki Sugiyama
photograph byShigeki Sugiyama
posted2006/02/17 00:00
2月7日未明、エジプト・カイロの病院で、
富樫洋一氏が亡くなった。54歳という若さで。
サッカー不毛の時代から共に旅し、共に楽しんできた仲間。
受け入れられない事実。そして彼との思い出。
羽田発6時55分のJAL機で関空に到着。僕はいま、そのラウンジで一休みしているところだ。今回は成田発の便が満席だったので、関空経由でヨーロッパを目指そうとしている。しばしば使う手だ。成田発が満席でも諦めるのは早い。成田へのアクセスが不便な方には、むしろこの関空経由のルートをお勧めする。羽田空港のアクセスもけっして良好とはいえないが、成田よりは数段ましだ。
成田空港を「新東京国際空港」と呼ぶことに、そもそも無理がある。強引すぎるし、嘘臭い。「浦安」の「東京」ディズニーランドは、ギリでセーフだが、成田の新東京は論外。千葉空港でしょ、やっぱり。Jリーグの理念に照らすと、その矛盾はよりいっそう明らかになる。耐震偽装の問題をふと思う。新東京に至る過程で、なぜ誰も「それは変だからやめようよ」と言い出さなかったのか。赤信号、みんなで渡れば怖くないって感じだ。
一言文句をいって、ああスッキリした!といいたいところだが、僕の心はここ最近、いまひとつ優れない。能天気になれずに困っている。それは、冨樫洋一さんの死と深い関係がある。エジプトで開催されていたアフリカ選手権を取材中、ジャンルカさんは心不全で亡くなった。あってはマズイことが起きてしまった。本日2月15日は、そのお通夜が上野の寛永寺でいとなまれる。そして、その日に日本を離れ、長旅に出かける僕。合掌。心は痛む。「あの人」が世の中から消えた。どんなことがあっても消えそうがない人が、本当にどこかへ消えた。帰らぬ人になった。サッカー界の風物詩と呼ばれた人が。僕はこの事実をとてもじゃないが、受け入れる気になれない。
冨樫さんのことを悪く言う人は、この世に誰一人いないだろう。典型的な善人。何より人と争うことが嫌いだった。こちらが苛々するぐらいお人好しだった。だからエピソードにも事欠かない。冨樫さんのラブリーな逸話は、三日三晩ブッ通しで喋り続けてもまだ足りないほどだ。一冊の本にまとめられるくらいネタは揃っている。彼ほど笑いが取れる人物も珍しかった。そういう意味で見習うべきキャラだった。搭乗時間が迫ってきた。とりあえず飛行機に乗ろう。
アムステルダム到着。
ちょうどお通夜が終わった頃だろうか。あの人との出会いは20年以上前に遡る。国立競技場のピッチの脇で、日本代表の試合前の練習風景を眺めている時だった。突然、僕の肩に手を回し「いつも原稿読んでるよ、スギヤマくん」と耳元で囁いてきたのが冨樫さんだった。誰だこいつは?僕が唖然としていると、すかさず名刺を差し出してきた。滅茶苦茶格好付けながら。僕がよく知るフォトエージェンシーの名刺だった。そこで営業の仕事を始めたのだという。以来の付き合いだ。そして冨樫さんも、気が付けば原稿を書く人間になっていた。何度も遠くの国へ、一緒に出かけていった。ほとんど仕事なんて抱えていないのに。冨樫さんの場合は、僕以上だった。にもかかわらず能天気だった、僕以上に。食事にも人一倍気を遣っていた。「良いもの食べなきゃ、体に悪いよ、スギッチ」といっては、原稿料を遥かに上回るリッチな食事を腹一杯ほおばっていた。「ワインとチーズは最高サ」なんて言いながら、昼間っから仕事もないのに、へらへら馬鹿話に興じていた。
'80年代は本当に良く遊んだ。突然、何の前触れもなく、僕んちに泊まりに来たこともあった。断っておくが冨樫さんは、僕より確か10歳近くも年上だ。当時、すでにオヤジと呼ばれてもおかしくない年齢にさしかかっていたにもかかわらず、行動は大学生のように大人げなく、事実、彼の心は少年のように美しかった。「この仕事が上手くいったら、みんなを温泉旅行に招待するから」なんて、景気のいい話を真顔で向けてきたこともある。もちろん、絶対あり得ないと信じていた僕は、それが実現せずに終わっても、恨んだりする気は少しも沸かなかった。
飛行機の搭乗時間が迫ってきた。今さらながら、お通夜に参列できなかったことが悔やまれる。
ミュンヘン到着。ミュンヘンといえばドイツW杯の開幕戦が行われる場所だ。冨樫さんとは'88年の欧州選手権西ドイツ大会も、一緒のホテルに泊まりながらフルカバーしている。そういう意味では本当に数少ない「友人」の一人だ。サッカー不毛のあの時代を、ともにニコニコ顔で生きてきた仲間意識が、僕と冨樫さんとの間にはある。見ずに語るな。行かなければダメだ。旅をする貴重さを共通理解している本当に数少ない盟友だった。
思い出すのはその1年前の出来事だ。ソウル五輪予選に臨んでいた日本代表は、20年ぶりの五輪出場に大手をかけていた。ホームの対中国戦に引き分け以上の結果を収めれば、念願は叶ったはずだった。ナンバー誌も、勝てば初めて一冊丸ごと、サッカー特集を組む予定になっていた。ナンバー誌のデスクから招集を受けた冨樫さんと僕は、国立競技場へ駆けつけ、20年ぶりの出場を見届けた瞬間から早速制作に取りかかろうと、その瞬間を待ち焦がれた。結果はご存じの通り。ナンバー初のサッカー特集号は、一瞬にしてご破算になった。あの時、日本代表が喫した0−2の敗戦は、いまもって悔やまれる。
そうこうしているうちに、サッカー界にもなんとなく良い風が吹き始めてきた。冨樫さんは、気が付けばナンバーで連載を持つようになった。スコアカードという半ページのコラムだ。'94年の夏に、僕がそれを引き継ぐことになったのだが、僕にお鉢が回ってきた理由は、冨樫さんの遅筆と大きな関係がある。担当編集者は、いつも冨樫さんの居所を僕に尋ねてきた。南米のマイナー国にまで、ファックスを送りつけてきたこともある。「冨樫さんを見かけたら、〆切は24時間以内だとお伝え下さい」。で、「だったら、スギヤマでいいか」ってな感じで、僕が連載を引き継ぐことになった次第だ。
冨樫さんは細かいことが嫌いな人だった。「でも〆切は守らないとマズイよ」と、10歳近くも年下でありながら、僕は彼に何度も注意した。でも心配ご無用。それ以降も、冨樫さんはこの世界を、健やかに生き抜いてきた。理由は簡単だ。良い人だから。悪いことなど一切出来ない、馬鹿が付くぐらいの真面目人間。人のこともけっして悪く言わなかった。殺伐としたこの世の中の、オアシス役だといえた。特別天然記念物。いま思えば、彼はサッカー界の朱鷺だった。
過去形にしなければならないところが辛い。信じられない。特別天然記念物が亡くなった。この世から消えた。今さらながらその貴重さを思う。僕はいま、とても憂鬱な気分でザグレブ行きの出発時刻を待っている。柄にもなく涙が溢れてくる。いまこの目の前にいても、何もおかしくない人物があの世へ逝った。冨樫さんがいまいる世界がどんなところか、僕には想像も付かないけれど、もしこの連載が読める環境にあれば、毎回必ず読んで下さいね。僕も冨樫さんに読まれているつもりで頑張って(いや、へらへらしながら)書きますから。冨樫さんの分まで旅しますから。あちこちで、美味いモノ食べますから。だから、厳しいチェックお忘れなく。頼みますよ、お願いしますよ、冨樫さん。