Number ExBACK NUMBER

アヤックスvs.バイエルン・ミュンヘン 価値観が一変した興奮の90分。 

text by

杉山茂樹

杉山茂樹Shigeki Sugiyama

PROFILE

posted2006/04/20 00:00

 アヤックス・アムステルダムの名前を聞いて連想するのは、まずヨハン・クライフ。続いて、当時の名監督、リヌス・ミケルスが提唱した「トータルフットボール」となる。

 しかし'70-'73年シーズンに達成したチャンピオンズカップ3連覇という偉業も、実際に生で見たものではない。子供のころに聞いた話であり、映像を眺めた機会もほんのわずかにとどまる。物の本で読んだに過ぎない話だ。

 その神格化された老舗クラブが、およそ20年という長い沈黙を破ったのは、'94-'95年シーズンのことだった。グループリーグで同組となったACミランに、2度にわたり2-0のスコアで完勝。前シーズンの決勝で、前評判が圧倒的に高かったバルセロナ、別名「ドリームチーム」を、4-0のスコアで叩きのめした、あのミランに対してである。

 そこにはきっと何かが潜んでいるに違いない。取材する価値は大いにある。ピンと来た僕はさっそく、『Number』のカメラマンを引き連れて、アムステルダムに飛んだ。

 ファンハール監督は、「2点取られたら3点取り返せばいいだけの話だ」と言い、アヤックス伝統の3-4-3スタイルのメリットについて、ピッチの幅を広く使う攻撃的サッカーの魅力について、口角泡を飛ばしながら自信満々に解説してくれた。

 スタメンに、名前が知られた選手はほとんどいなかった。有名どころはフランク・ライカールトだけ。しかし、一見しただけで魅力的、かつ異色な要素がうかがえた。

 10番を背負うエースは、ヤリ・リトマネンというフィンランド人。そして、パトリック・クライファート、ヌワンコ・カヌー、クラレンス・セードルフといった、いずれも10代の3人。さらに、エドガー・ダービッツやマルク・オーフェルマルスといった小兵。若くて、バラエティに富み、攻撃的。「新撰組」を彷彿とさせる型破りなイケイケチーム。それがクライフ譲りの伝統のユニフォームに身を包み、欧州を席巻しようとしていた。

 僕はそのときのレポートをこうシメている。

 「アヤックスの次の試合は、欧州チャンピオンズリーグ準決勝、対バイエルン戦(略)その真のプロ・フットボールチームが売りとするスペクタクルなスリルをたっぷりと堪能させていただくつもりである」

 期待は叶った。ミュンヘンで行われたアウェーの第1戦を、0-0で乗り切ったアヤックスは、ホームに戻った第2戦で、持ち前のスペクタクルを余すことなく発揮してくれた。

 '95年4月19日、アムステルダム・オリンピックスタジアムは、3万人の観衆で満員に膨れあがっていた。現在のホームスタジアム「アレーナ」ができたのは、その翌年のことだから、なによりスタンドが古かった。アムステルダム五輪が開催されたのは1928年。メイン会場は、大きな改修を施された形跡もなく、70年近い時を刻んでいた。とても暗いスタンドだった。その中にファンがすし詰めで座る様子はとても厳かで、自然とクライフ時代のアヤックスを思い出すことができた。

 相手のバイエルンはドイツを象徴するチームだ。第2次世界大戦でナチスドイツから痛い目にあったオランダには、必要以上に憎い相手に見える。サッカーも、'74年西ドイツW杯決勝で、まさかの敗戦を喫した経緯がある。この準決勝のスタジアムに詰めかけた観衆に、過去のシーンが去来していたことは間違いない。この試合はまさに大一番だった。

 だが、アヤックスに硬さはなかった。開始11分、セードルフ、ライカールト、リトマネン、ロナルド・デブールと渡ったボールは、リトマネンの一撃によって、あっという間にバイエルンのゴールを揺らしていた。

 日本人の僕が、現場でなにより驚かされたのは、アヤックスのその後の姿勢だった。相手はバイエルン。格で言えば上にあたる強者から先制点を奪うことに成功すれば、多少なりとも慎重に、重心をより後ろに構えるのが常識だ。ところがアヤックスは、ガンガン攻め続ける。まるで何かに取り憑かれたように。結果、前半36分、ショルのクロスからビテチェクに同点ゴールを許してしまう。これはアウェーゴールである。一転、バイエルンが、試合をリードしたことを意味する。

(以下、Number651号へ)

海外サッカーの前後の記事

ページトップ