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「4万本の五寸釘、落ちれば凄惨」アントニオ猪木が“前代未聞のデスマッチ”を実現させた真相…「日本人ヒール」を確立した上田馬之助の存在

posted2024/02/13 17:01

 
「4万本の五寸釘、落ちれば凄惨」アントニオ猪木が“前代未聞のデスマッチ”を実現させた真相…「日本人ヒール」を確立した上田馬之助の存在<Number Web> photograph by AFLO

アントニオ猪木と日本人ヒールとして抗争を展開した上田馬之助

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 今から46年前の1978年2月8日、新日本プロレスの日本武道館大会で前代未聞のデスマッチが行われた。新日本のエース、アントニオ猪木と日本人悪役レスラーの先がけである上田馬之助によるネイル(釘板)デスマッチだ。

 当時、日本で行われていたデスマッチといえば、国際プロレスの代名詞だった金網デスマッチや、対戦相手同士の手首を鎖でつなぐチェーンデスマッチなど、デス(Death=死)マッチと言っても凄惨な試合になりこそあれ、実際に死ぬことはないだろうと思われる試合形式だった。猪木自身もタイガー・ジェット・シンとランバージャックデスマッチで対戦したことはあるが、凄惨さを売りにするのではなく、リングの四方をレスラーが取り囲み選手が場外に落ちるとすぐさまリングの内に戻すという、あくまで「リング内での決着」を目的としたもの。

 しかし猪木vs.上田のネイルデスマッチは、約4万本の五寸釘が打ち付けられた板をリング下に敷き詰め、もし落ちれば凄惨なシーンが避けられない文字通り“死”を連想させるもので、猪木のレスラー人生の中でも異例の試合形式だった。この前代未聞のデスマッチはいかにして実現したのか。上田のレスラー人生とともに振り返ってみたい。

馬場、猪木の陰に隠れた存在

 上田馬之助は1960年に大相撲から力道山の日本プロレス(日プロ)に入門。若手時代から寝技のガチンコの実力には定評があったが、ほぼ同期生であるジャイアント馬場、アントニオ猪木の陰に隠れ地味な存在だった。

 ’63年に力道山が亡くなったあと、馬場と猪木は日プロの二枚看板として君臨。’71年12月、社内改革に動いた猪木が「会社乗っ取りを謀った」として日プロを追放され翌’72年3月新日本プロレスを旗揚げすると、馬場も日プロの放送から撤退した日本テレビに独立を促され、全日本プロレスを設立。上田らは力道山が創った日プロを最後まで守ると誓うも、2大スターとテレビ放送を失った日プロは’73年4月にあっけなく崩壊した。この「力道山の死」と「日プロの崩壊」が、上田の運命を狂わせることとなる。

 日プロ崩壊後、上田馬之助、大木金太郎、高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)、グレート小鹿ら日プロ残党は日本テレビの仲介で全日本プロレスに合流するが、ここで冷遇される。

 全日本の社長である馬場にとって、上田ら日プロ残党は日本テレビの意向で仕方なく引き取っただけで、自分に従順ではないレスラーを必要とはしていなかった。そのためマッチメイクを前座扱いにすることで飼い殺しにし、半ば自分から辞めていくように仕向けたのだ。

【次ページ】 スキャンダラスな“ネイルデスマッチ”はなぜ実現したか

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