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浦和レッズ伝説FWの引退後「政治は金がかかるね…」ブラジルで議員→スポーツ長官に転身のワケ「草サッカーチームの名はウラワ・レッズだ」

posted2024/01/22 11:03

 
浦和レッズ伝説FWの引退後「政治は金がかかるね…」ブラジルで議員→スポーツ長官に転身のワケ「草サッカーチームの名はウラワ・レッズだ」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

浦和レッズ時代のユニフォームを着用したワシントン(48歳)

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Hiroaki Sawada

東京ヴェルディ、浦和レッズで得点を量産した元ブラジル代表FWワシントン(48歳)に、アジアカップに臨む日本代表への称賛と日本人FWへの“率直な提言”、自身のキャリアと現在の議員生活について大いに語ってもらった。(全4回の第4回/第1回第2回第3回も配信中)

 ワシントンは浦和レッズ加入初年度となった2006年、Jリーグで26ゴールを挙げて得点王に輝き、クラブをJ1初制覇、天皇杯の2冠に導く原動力となった。翌年も活躍が期待される中で、指揮官がギド・ブッフバルトからホルガー・オジェックへと変わった。監督との関係性において、ワシントンはズレを感じ始めていたという。

「ギドとは良い関係を築けていたが、オジェックは気難しい人物だと感じた。たとえば、私は試合前日にシュート練習をするのが長年の習慣なんだけど、『疲れるからやめておけ』と言われた。それくらいで疲れるはずがないのに――(注:禁じられた居残り練習をしたため、先発を外されたことがあった)。この年、例年に比べて得点が少なかったのは、監督との軋轢でストレスがたまったせいだと思う」

オジェックとはうまくいかなかったが

 それでも、浦和はAFCチャンピオンズリーグを制覇。クラブはオジェック監督との契約を延長した。

「オジェックとはうまくいかなかったが、自分としては2008年も浦和でプレーを続けたかった。良いプレーができる自信があった。しかし、クラブはオジェックの意向を汲んで、私とは契約を更新しなかった」

 ちなみに、当時、主力の1人だったMFロブソン・ポンテは、「2007年でオジェックとの契約を打ち切り、ワシントンをチームに残すべきだった」と語っている。ただし、Jリーグと天皇杯の日程が終わっても、年末に日本で開催されるクラブW杯が残っていた。

「大会前、クラブ関係者から『来年は浦和でプレーしてもらえないが、ベストを尽くしてくれ』と言われた。そんなことは、言われるまでもない。プロとして当たり前だ。監督のためじゃない。クラブのため、サポーターのため、そして自らのプライドのために、死に物狂いでプレーすると決めた」

もし浦和に残っていたら…残念だ

 準々決勝のセパハン(イラン)戦でゴールを決めて勝利に貢献すると、準決勝ではACミランに0-1で惜敗したものの、アレッサンドロ・ネスタら世界トップクラスのCBと互角以上に渡り合った。そして、3位決定戦のエトワール・サヘル(チュニジア)戦ではチーム全得点となる2点を叩き込み、さらにPK戦でもキックを決めて浦和が3位に食い込む立役者となった。

【次ページ】 35歳で引退、凄まじい決定力を示す数値

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