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バレー日本代表エースの給料が“10分の1”に? 21年前、イタリア挑戦の加藤陽一を待っていた“低すぎる日本の評価”「車やテレビを売って…」

posted2023/10/17 11:01

 
バレー日本代表エースの給料が“10分の1”に? 21年前、イタリア挑戦の加藤陽一を待っていた“低すぎる日本の評価”「車やテレビを売って…」<Number Web> photograph by AFLO SPORT

1998年世界選手権での日本代表デビュー以降、長らくエースとしてチームを牽引した加藤陽一。海外でのプレーを経験したことで当時のニックネームは「世界を知る日本のサムライ」

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弓削高志

弓削高志Takashi Yuge

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AFLO SPORT

 今から21年前の2002年、加藤陽一(47歳)は日本代表に招集されないリスクを承知でVリーグチームを退団し、イタリアへ渡った。猛アピールの末、念願かなって欧州トップクラブのトレヴィーゾへ移籍するも、現地ではまさかの低待遇や思わぬトラブルに遭遇する。石川祐希や高橋藍に先駆けた海外挑戦のパイオニアが語る波乱万丈ストーリーとは? 全3回のインタビュー第2回目(第1回3回へ続く)。

スマホなき時代、電話もチャージ式

――男女問わずVリーグに来る外国人選手は、決まって日本のクラブのオーガナイズが完璧だとか受け入れ体制がすごく整っているだとか好意的に話してくれますね。2002年に加藤さんがイタリアへ移籍したとき、現地での生活ぶりはどうだったんですか。

加藤 結婚してすぐ行ったんですね。その年の8月に結婚式を挙げて。(9/28から10/13まで開催された)アルゼンチンでの世界選手権から帰ってきて、3日後に妻と2人でイタリアへ旅立ちました。

――当時のイタリアでも携帯電話は普及していましたが機能的にメールは打てず、そもそもインターネット環境のある一般家庭がまだ珍しかった。通話も不便でした。

加藤 アナログの世界ですね。うちのは(ISDN回線で)電話線につないでピーッという。動画を見ようにもまだYouTubeもなかったですし、日本までなかなかたどり着かない生活でした。まだスマホがなかった時代で、カードを買ってきて(スクラッチを)削って料金を入れて。そういうチャージ式の電話でしたね。

(※携帯電話料金の口座引落は普及しておらず、街角の売店や新聞スタンドで購入するプリペイドカード方式が一般的だった。日本と通話する際には割安な国際回線用カードの別途購入が必要だった)

日本代表エースが直面「給料は10分の1」

――東レを退団してトレヴィーゾと契約したわけですが、年俸や待遇面でプロになったことで目に見えて変わった変化はありましたか。

加藤 手取りがいくらというより、自分の価値を思い知らされました、日本人のアタッカーの価値というのがすごく低いんだなと思いましたね。当時日本でいただいていた給料の10分の1ぐらいでした。もうめちゃくちゃ低かったですね。

 たぶん学生(から初めてプロ契約するリーグ規約上最低給)ぐらいの金額じゃないかと思います。なので、自分たちが使ってた車やテレビなど全部売って、それを現金にしてイタリアへ全部持っていって。

 生活する上でアパート代や電気ガス代はクラブが負担してくれました。ただ、屋根のある家に住める生活は保証してくれたけど、食費や(高額になる)携帯料金といった雑費は自分たちで賄わないといけなかったので、海外生活の1年目は貯金を切り崩しながらの生活でした。食事は妻がしっかりサポートしてくれたので助かりましたね。

――日本のバレーボール史に残すべき苦労話ですよ。

加藤 (笑いながら)日本ではすごく待遇を良くしてもらって、いろいろな人から応援もされていた。でも、海外ではやっぱり日本の評価ってすごく低いんだなって思いましたね、その当時は。

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