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「高校野球でここまでやるか」継投が異端視された20年前…“木内マジックの完成形”常総学院が優勝するまで「甲子園、40度くらいになるんだ」

posted2023/08/09 11:01

 
「高校野球でここまでやるか」継投が異端視された20年前…“木内マジックの完成形”常総学院が優勝するまで「甲子園、40度くらいになるんだ」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

甲子園優勝「3回」。名将・木内幸男のマジックはいかに生まれたのか?(写真は常総学院時代)

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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 高校野球史に残る「名将」木内幸男。“木内マジック”と評された天才的な采配はいかに生まれたのか。生前に本人をインタビューした筆者による追想。(全3回の2回目/#1#3も)

 木内幸男は継投が嫌いだったのだという。

 取手二を初の全国制覇へと導いた1984年は石田文樹がおり、常総学院を率い準優勝を果たした87年も島田直也がいた。木内が監督として頭角を現した70年代から、名将への階段を駆け上がっていた80年代の高校野球は、まだ絶対エース主義が色濃く残っていた。したがって、そういった信念があるのは当然と言えば当然でもある。

 だが木内は、そこに固執することはなかった。継投が嫌いだと言いながら、複数のピッチャーを起用して勝つ監督でもあった。

「昔の監督さんだったら、エースを作っておんぶにだっこ。そいつがこけたらチームみんなこけたという。毎年6回を絶対に投げるピッチャーには巡り合えねぇんだから」

 時代と現実。木内は双方を見極め、ベンチでタクトを振れた監督だった。だからこそ、自らが抱える矛盾をも巧妙に活用できたのである。

天才的な「継投の判断」

 木内が継投を駆使するようになったのは、2000年代に入ってからだった。

 常総学院で初の日本一となった01年のセンバツ。チームはエースの村上尚史と外野手を兼務する左腕の村田哲也、サイドスローの平沢雅之とタイプの異なるピッチャーを揃えていた。大会では結果的に、村上が5試合33イニングを投げたが、木内はこのエースに依存はしていなかった。

「センバツの前の練習試合でエースが一番ダメ。2番手、3番手が絶好調。だから甲子園でもふたりを出したらもたなかった。ほんでエースを出したら抑えちゃった」

 このセンバツで印象深い継投策を挙げるとすれば、仙台育英との決勝戦だ。

 6-2の6回。先発の村上が1点を奪われ、なおもピンチを作ると、木内はすぐに村田にスイッチし後続を断ち切らせた。さらに7回の満塁の場面でも村田から代わった平沢が押し出しフォアボールを与えると、センターを守っていた村田を再びマウンドへ呼び寄せ難局を退けた。終盤に猛攻を仕掛けた仙台育英を振り切り7-6。あと1点を許さなかった。

【次ページ】 「勇退宣言」で臨んだ20年前

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