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「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?

posted2021/02/28 17:02

 
「東洋の魔女」生理でも練習させて…当時も賛否両論 日本の女性アスリートたちは“誰と”戦ってきたか?<Number Web> photograph by JMPA

1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場した小谷実可子(1988年撮影)

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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JMPA

 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の辞任を受けて、前五輪担当大臣の橋本聖子がそのポストを引き継いだ。2月24日には、橋本は会長就任後初めて国際オリンピック委員会(IOC)の理事会にオンラインで参加、組織委のプレゼンテーションを行った。その席で「ジェンダー平等推進チーム」を設置すると報告、同チームのリーダーを組織委のスポーツディレクターである小谷実可子が務めることも発表された。

 会長就任早々、過去のセクハラ疑惑があらためて取り沙汰されるなど波乱含みの出発となった橋本は、1964年の東京五輪の開幕5日前に生まれ、その名も聖火にちなんでつけられた。小谷も1966年生まれとほぼ同年代であり、アスリートとしてやはり橋本と同時期にオリンピックで活躍した。

橋本も小谷も「均等法第1世代」

 本来はスピードスケート選手である橋本は、1984年のサラエボより4大会連続で冬季五輪に出場。これと並行して1988年のソウル五輪で新たに採用された自転車の女子スプリントに出場する。冬・夏をまたいでの五輪出場は、日本選手では関ナツエ(スピードスケート・自転車ロードレース)とともに初めてのケースであった。以来、橋本は夏季五輪にも3回連続で出場を果たしている。

 冬季五輪では、1992年のアルベールビル大会のスピードスケート1500メートルで銅メダルを獲得。続く1994年のリレハンメル大会では、女性では初めて日本選手団の主将を務めた。1995年の参議院選挙で初当選したのはまだ現役中で、翌夏のアトランタ五輪後に引退する。その後も、2010年のバンクーバー、2014年のソチと冬季五輪で日本選手団団長も務めた。まさに「五輪の申し子」と呼ぶにふさわしい経歴である。橋本はこのほか、日本スケート連盟会長、日本自転車競技連盟会長をはじめ、各スポーツ団体の役員も歴任してきた。

 シンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)の選手だった小谷もまた、ソウル五輪に出場し、ソロと、田中京と組んだデュエットでそれぞれ銅メダルを獲得。次のバルセロナ五輪を区切りとして引退後は、2005年に当時最年少で就任した日本オリンピック委員会(JOC)の理事や、2020年の東京五輪・パラリンピック招致委員会のアンバサダーなど、やはり要職を歴任してきた。

 橋本と小谷が組織委で実現を目指すジェンダー平等に絡めていえば、男女雇用機会均等法が施行されたのは、彼女たちが現役時代の1986年だった。同年から1990年までのあいだに総合職として就職した女性は「均等法第1世代」と呼ばれる。まさにこの世代にあたる2人は、スポーツ界において男女の機会均等を実践してきたともいえる。

「女性のスポーツは見るに堪えない悪趣味なもの」

 だが、彼女たち以前にも、女性のスポーツへの挑戦は一世紀近くにわたって続けられてきた。男性とくらべると身体面のみならず社会的な境遇においても大きなハンディを抱えながら、女性アスリートたちは、どのように戦ってきたのか、ここで振り返ってみたい。

【次ページ】 日本人女性初のメダリストは「職業婦人」だった

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