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引退決意の坪井慶介が無名だった頃。
恩師が明かす大学時代の挫折と覚醒。 

text by

石倉利英

石倉利英Toshihide Ishikura

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photograph byJUFA/Reiko Iijima

posted2019/11/15 11:40

引退決意の坪井慶介が無名だった頃。恩師が明かす大学時代の挫折と覚醒。<Number Web> photograph by JUFA/Reiko Iijima

2001年当時の坪井慶介。乾監督のもと、大学4年間で大きな成長を遂げ、日本代表まで登りつめた。

転機は全日本選抜の海外遠征。

 1年時からレギュラーの座を勝ち取った坪井は、オフの日もトレーニングや体のケアに熱心に取り組み、試合に出場しながら経験を重ねていく。フィードや展開力は心もとなかったが、予測と駆け引き、持ち味のスピードを生かすインターセプトや、背後を突かれても反転力でカバーするボール奪取力の高さが際立っていた。

 ただ、すべてが順風満帆だったわけではない。現状の実力を示す指針の1つとなる全日本大学選抜には、なかなか選ばれなかった。

 それでも3年生になる前の2000年4月、同選抜のメンバーにケガ人が出たため、海外遠征に追加招集された。当時は'01年北京ユニバーシアードを視野に強化が進められていた時期。ここで認められれば翌年の本番でのメンバー入り、さらに卒業後のJリーグ入りも現実味を帯びてくる。

 高校から大学に進んだときと同じく、ここでメンバーに滑り込んだことが飛躍のきっかけになった……のではない。むしろ逆だった。

失敗を“整理”して成長した坪井。

 現地のクラブチームなどと3試合を戦った遠征で、坪井は最初の1試合に出場したものの、続く2試合は出番なし。同選抜でコーチを務めていた乾氏は「力を発揮できなかった」と回想する。

「自分が積み上げてきたものが通用しなかったショックが影響したのかもしれません。福岡大に戻ると、4年間で最大のスランプに陥りました。それまでなら考えられないような抜かれ方をするなど、まったくダメな時期が続いたんです」

 だが、そのまま下降線をたどることはなかった。

「私が何かきっかけを与えたわけではなく、自分で自分を磨いていくことができる選手ですから、黙々と努力していたはずです。急に全日本大学選抜のメンバーに入り、自分にはない良さを持つ選手と一緒にプレーして、混乱したのではないでしょうか。しばらくすると得意なこと、不得意なことの整理ができたのだと思います。3年生の終わり頃には守備のスペシャリストとして、ブレない自分のスタイルが出来上がっていました」

【次ページ】 ユニバーシアードの優勝に貢献。

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