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37歳、苦労人アスリートの五輪道。
エアリアル田原直哉へ心から賛辞を。 

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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photograph byGetty Images

posted2018/02/21 07:00

37歳、苦労人アスリートの五輪道。エアリアル田原直哉へ心から賛辞を。<Number Web> photograph by Getty Images

平昌の凍てついた夜空に舞った田原の演技。その1本には、多くの支援者の気持ちがこもっていた。

「技の感覚では田原以上の子を見たことがない」

 近畿圏では大阪のマック体操クラブが老舗として有名。新興のオレンジ体操クラブは「マックに追いつき追い越せ」と猛練習に明け暮れた。

 美しい体操で名を馳せるマックには田原と同学年の冨田洋之と鹿島丈博がおり、無敵を誇っていた。2人は後にアテネ五輪団体金メダルに輝いたメンバーだ。

 冨田や鹿島より後のタイミングで体操を始めた田原は、最初の大会ではダブルスコアで負けるほどの差があったが、1年後には早くも競り合うようになり、ときには勝つようにもなった。美しさでは冨田や鹿島のいるマックに勝てない。オレンジは技で勝負していた。

 その中でも田原は「技の天才」だった。水口コーチは「技の感覚では田原以上の子を見たことがない」と言う。

 高校まで和歌山で過ごした田原は、大学は日体大に進学。そこでは現在、体操日本代表監督を務めている水鳥寿思が同期にいた。

 水鳥は「学生時代の僕と田原の実力は互角。インカレや全日本選手権の団体戦メンバー入りを競い合うライバル同士だった」と述懐する。

 大学卒業後、田原は水鳥とともに社会人体操の徳洲会体操クラブに入り、アテネ五輪を目指した。しかし、田原は代表選考会で敗れ、水鳥、冨田、鹿島が代表入り。彼らはアテネ五輪で金メダルを獲得した。

命がけで「伸身リピスキー」に取り組んだ。

 仲間たちがスポットライトを浴びる横で、五輪の夢を諦めない田原は、世界で誰もやっていない床運動の技、「伸身リピスキー」を演技構成に入れた。危険度が高いということで現在は禁止技になっているほどの大技に「命がけで」(田原)取り組んだ。

 ところが'05年に肩を負傷。リハビリを行なっていた'06年2月に偶然テレビで見たのがトリノ五輪のエアリアル競技だった。

 徳洲会の仲間たちには「お前ならいけるんじゃないか」と後押しされた。

 会社も「徳洲会スキークラブ」を設立するなど、スキー経験のない田原を後押ししてくれた。

【次ページ】 37歳だが……まだ伸びしろはあると。

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