プロ野球亭日乗BACK NUMBER
“監督やGMのようなもの”で自滅。
中日ベンチ内で、一体何があった?
posted2016/08/22 16:30
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
Naoya Sanuki
監督のようなものにGMのようなもの……「のようなもの」が跋扈して中日はシーズン途中で空中分解した。
中日の谷繁元信監督の休養が発表されたのは8月9日のことだった。
「結果が全てのプロの世界。腹をくくりながら過ごしてきて、こういう結果になったのは監督である私の責任。何とか強くしたいとやってきて、このような形でドラゴンズを去る寂しさ、悔しさがある」
ナゴヤドームのヤクルト戦を前に行われた実質上の解任会見で谷繁監督はこう語った。
ただ、この日の朝に球団から呼び出され突然、休養を求められた急転直下の展開は「寝耳に水だった」と監督には予想外の出来事だったことも疑う余地はなかった。
そしてこのドタバタでクローズアップされたのが、解任の“黒幕”と言われる落合博満GMである。
「経費少なく、おやっと思う選手を獲って生かして優勝」
2013年オフに高木守道前監督の後任監督を選定する中で、白井文吾オーナーが評論家だった落合さんと会談して谷繁監督案を相談。落合さんもこれを支持して谷繁監督は誕生することになった。このとき同時に白井オーナーが落合さんに顧問になって欲しいと要請し、「GMっていう手がありますよ」と落合さんサイドから提案があったのだという。
ただ、このときの白井オーナーの頭には、そもそもGMという職制への認識がほとんどなかったのが実際だ。
記者会見ではオークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMを描いたベストセラー小説『マネー・ボール』を例に出して「経費を少なく、おやっと思う選手を獲って生かして優勝させる。理想です」と嬉々としていたのが印象的だった。
そうしてそのオフには落合GMの手で球団史上例のない大幅な選手の年俸カットが行われた。その「経費を少なく」チーム運営を行うGMの手腕に、オーナーの評価は一気に高まったという。
そして落合GMは最高権力者の信頼をバックにコストカットだけでなく、チーム人事や補強など全権を掌握していった。
これがこの3年間の中日だった。
ただ、谷繁監督にしてみれば、思っていたものとも聞いていたものとも、現実の監督業は全く違う、まさに「監督のようなもの」だったのである。