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栄光の“鹿島の10番”は北九州へ――。
東福岡高出身・本山雅志の夢は続く。

posted2016/01/09 06:00

 
栄光の“鹿島の10番”は北九州へ――。東福岡高出身・本山雅志の夢は続く。<Number Web> photograph by Akane Suo

地元でボランティアとして参加している「WAKAMATSU CUP」での本山。

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蘇芳あかね

蘇芳あかねAkane Suo

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Akane Suo

「俺、しばらく実家から通おうと思ってるんだけど。変かな!? 実家から通ってる36歳のプロ選手って、きっと他にいないよね」

 本山雅志は笑いながら言った。

 ギラヴァンツ北九州への移籍が正式に発表された4日後、昨年末12月30日のことである。

年末、“鹿島の10番”だった男は北九州にいた。

 12月30日、本山雅志は早朝7時から、北九州市内の某グラウンドにいた。

 池元友樹(北九州)や山形辰徳(栃木FC)、引退した宮原裕司、千代反田充など東福岡高校卒業生の姿もみえる。ほかにもアビスパ福岡J1昇格の原動力・鈴木惇、アギーレJAPANに招集されたこともある坂井達弥(鳥栖)、U-18日本代表の冨安健洋まで……。

 彼らは“WAKAMATSU CUP”のボランティアスタッフだ。

 WAKAMATSU CUP(新春初夢若松サッカー大会)は本山雅志、宮原裕司、山形辰徳の3人が主催者となり、毎年冬休みに地元の小学生チームを招待して開催している少年サッカー大会。主催者3人の実家は北九州市の“若松”区、歩いて100歩の距離にある。そろって二島小学校→二島中学校→東福岡高校→プロサッカー選手になった盟友である。

「大会」といっても優勝チームを決めるためのカップ戦ではなく、丸1日、地元小学生とプロのサッカー選手がいっしょにプレーする手作りのイベントだ。ボランティアの選手たちは助っ人外国人のように各チームに入り本気で試合をする。

 6年前に引退し、アビスパ福岡で育成の仕事を始めた宮原裕司が2人に声をかけてスタート。発起人の宮原裕司は当時こう話していた。

「自分が指導者になってみて、二島FCだったり東福岡だったり、これまでお世話になってきた方々たちのおかげで自分の夢をかなえることができたんだとしみじみわかった。福岡のサッカーを盛り上げようとかそんな大げさなことじゃなくて、何か恩返しがしたい。交流の場になれるように小さいイベントでいいから長く続けたい」

 その言葉どおり、少しずつ賛同者を増やし続けて第6回をむかえた(筆者も第1回から撮影ボランティアとして参加させてもらっている)。

ギラヴァンツのユニフォームを着た本山雅志。

 手作りの大会ではあるものの、例年、何社か地元メディアが取材に訪れるWAKAMATSU CUP。今回は本山移籍後初の公の場となるだけにどうしたものか……。

 だったら逆にしっかりおひろめできるようにしよう、と、ギラヴァンツのチームスタッフが急きょ新ユニフォームを用意し大会会場に持ってきてくれた。

 本山がそれを拡げて袖を通すと、宮原がすぐ反応する。

「お、モッさん、なつかしい背番号やね(笑)」

 43番は、本山が東福岡高校時代3年間つけていた練習着の背番号だ。

「ミツ(小笠原満男)に“40番にしなよ”って言われて、“なんでよ? お揃いにするわけないじゃん!”とか話してるときに、パっと43番が浮かんだの。初心に帰れるかなとも思って」

 各局テレビのローカルニュース、新聞社などほとんどすべての地元メディアが集まってきていたこともあり、なりゆき上、本山雅志・ギラヴァンツ北九州入団記者会見とあいなった。

【次ページ】 いつ、アントラーズ退団を考えたのか?

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