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<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。 

text by

船曳陽子

船曳陽子Yoko Funabiki

PROFILE

photograph byAsami Enomoto

posted2015/02/05 16:30

<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。<Number Web> photograph by Asami Enomoto
「ワシから酒と野球をとったら何も残らん」
“阿波の攻めダルマ”こと故・蔦文也が
奔放な生を燃やした、あの山あいの日々。
稀代の名将が掴んだ栄光の裏側にある、
知られざる夫婦のドラマを追った。

2015年2月3日、蔦監督の妻・キミ子さんが91歳で他界されました。
ご冥福をお祈りするとともに、Number858号に掲載された
池田高校と2人のノンフィクションを全文掲載します。

 石畳の続くうだつの町並みに、下駄の音が響いていた。その手には、着替えのシャツとズボンと靴。エプロン姿の蔦キミ子は、夜が深まると家を出る。行く先は決まっている。夫、池田高校野球部監督の蔦文也は、行きつけの呑み屋数軒のどこかにいる。

 酔うと道々でネクタイを外し、ワイシャツを脱ぎ、靴まで脱いでしまう癖がある。それを拾い集めて店に着くと、キミ子はガラス戸の外にそっと座る。決して中には入らない。その姿を見つけると、夫は「ダルマ」と呼ばれる屈強な体を縮めて店の奥へと引っ込んでしまう。どうせ最後は、妻に手を引かれて帰るのに、一度は逆らってみせるのだ。

 巨人のV9が途切れ、長嶋茂雄が引退した1974年、池田高校は「さわやかイレブン」で春のセンバツに旋風を巻き起こした。'82年夏、'83年春には畠山準、水野雄仁、江上光治らを擁して甲子園を連覇。率いたのは「攻めダルマ」と呼ばれた蔦だった。犠打や盗塁、進塁打などそれまでの常識だった古い野球を捨て、耳をつんざく金属バットの音を聖地でやまびこのように響かせた。

「あの奥さんがいなければ、強い池田はなかった」

 愛嬌のある阿波弁と豪快な酒の飲みっぷりでも愛された蔦は、その後の高校野球を大きく変えた。計3度の甲子園優勝、通算37勝11敗の戦績は、今も高校野球の歴史に燦然と輝いている。だが一方で、生前の蔦は「蔦はんの歴史は、負けの歴史じょ」と酔っては自虐的に言った。

 '52年に28歳で池田の監督に就任して以降、初めて甲子園切符を手にするまでに20年の歳月を要している。県内では蔦の母校でもある徳島商が覇権を握っていた。怪腕、板東英二を擁した相手にコールド負けの屈辱も味わった。長い長い雌伏の時代。58歳で甲子園初優勝を遂げるまで、蔦はいかなる日々を送っていたのか。

 今日も池田の町を訪れると、誰もが口を揃えて言うことがある。

「あの奥さんがいなければ、強い池田はなかった」

 池田の黄金時代が到来するそのずっと前から、蔦の陰にはいつも、夫に寄り添い続けたキミ子の姿があった。もう一つの池田の歴史がそこにある。

【次ページ】 寮に済む50人前後の生徒をキミ子が一手に預かった。

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