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<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。 

text by

船曳陽子

船曳陽子Yoko Funabiki

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photograph byAsami Enomoto

posted2015/02/05 16:30

<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。<Number Web> photograph by Asami Enomoto

ビール瓶を取り上げて、グラウンド脇で割ったことも。

 蔦夫婦には子供が4人。長男の泰見は「一家団らんはまったくなかった。家族旅行も行ったことがない」と苦笑いで振り返る。

「母はいつも父を探し回っていました。呑み屋も行ったし、そうでない時は、高校の宿直室。そこで鶏とか豚の水炊きを作って、呑んでいたんです」

 時にキミ子は、子供連れでも夫を迎えに出掛けた。

「僕も小さい時、手をつながれて、何軒か行ったことがある。小学校の高学年の時かな。宿直室へ迎えに行っても帰らんけん、父からビール瓶を取り上げて、グラウンドの脇のところへ持っていって割ったこともありました」

 家は経済的に決して豊かではなかった。旧家であっても収入は教員の給料。「生徒の世話で金儲けはしたらいかん」という蔦の考えで、寮費もほとんど食費程度だった。その上、自分は酒を飲んで気分がよくなると、店の女の子に1万円札を配って悦に入ってしまう。キミ子にすればたまったものではない。そして、夜な夜な夫を追って、下駄の音を石畳に響かせるのだ。

「おかあはんが、よう逃げんと支えたなと思います」

 泰見には、町の人に「お前の親があんなんじゃけん、甲子園行けんわ」と言われたつらい記憶がある。母のキミ子も同様だっただろう。それでも黙って父に寄り添っていた。

「大人になってようやくわかった。おやじは野球に負けて腹立ち紛れに飲んどったんかなと。そういう時におかあはんが、よう逃げんと支えたなと思います」

 母もまた、戦っていたのだ。

91歳になったキミ子さん。意志の強そうな口元が往時の蔦監督を偲ばせる。

「さわやかイレブン」以前の不遇の時代に、長男の泰見、次男の隆司とも池田野球部に入部した。マネジャー兼スコアラー兼捕手だった泰見は振り返る。

「その年、3年生がやめたら部員は8人もおらんかった。仕方なしに入ったんですよ」

 2人の入部にはもう一つの側面があった。当時は選手への平手打ちなどが日常的だった頃で、若かった蔦も例外ではなかった。それを防ぐため、キミ子が息子の入部を夫に許可させたのだという。

 蔦は野球部について立ち入ったことを言われると「おかあはんは野球のことは知らんけん、黙っときなはれ」としばしば釘を刺した。しかし、キミ子は「よそのお子さんを預かっとるんやけん、怪我さしたらいかん」と譲らなかった。

【次ページ】 「うちの先生より偉いんは、天皇陛下だけじゃ」

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