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二浪、プロでの葛藤、引退後の進路。
元SB江尻慎太郎の「人生のFA宣言」。 

text by

田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2014/12/25 10:40

二浪、プロでの葛藤、引退後の進路。元SB江尻慎太郎の「人生のFA宣言」。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

2011年の横浜時代には、65登板で防御率2.06という成績を残すなど活躍した江尻慎太郎。記者会見での応答も個性的で、多くのファンに愛された。

名投手・小林繁に1週間で告げられた“最後通告”。

 プロ初勝利は3年目。先発としてなかなか芽が出なかった江尻が飛躍するきっかけを掴んだとすれば、それは8年目の2009年。この年から二軍の投手コーチとなった小林繁からサイドスローを勧められたことだった。

「サイドにしなかったらクビになるよ。今のお前じゃ一軍に上がれる気がしない」

 小林と出会ってから1週間ほどでの“最後通告”。当時の江尻は「自分をあまり見ていない人に言われたくない」と少なからず疑念を抱いたそうだが、「でも、小林さんが言うなら」と名サイドスローからの提案を受け入れた。さらには、大学時代の飛躍を後押ししてくれた藤井が日本ハムで再びチームメートとなり、「挑戦することに何のリスクもない。サイドがダメならまたオーバースローに戻せばいいじゃん」とアドバイスを受けたことも背中を押してくれたと江尻は言った。

 '09年は45回を投げ25四球を記録してしまい、「四球王」のレッテルを貼られたが、年を追うごとに制球力は改善され球速も150kmまで伸びた。最終的にサイドスローは彼の代名詞となっていった。

二度のトレードで培ってきた組織人としての自己。

 プレーヤーとしての地位を築くことができたのであれば、組織人としての自己を確立できたのも、開拓者・江尻の特徴でもあった。

 これについて江尻は、「運と多くの方たちに助けられたから」とひと言で総括する。

 '10年に横浜へトレードとなった際には、日本ハムが北海道に移転した'04年から声援を贈ってくれたファンとの別れを惜しみ、異例の「トレード会見」で涙を流した。

 横浜では低迷するチーム事情、親会社のDeNAへの変更などで、組織運営の大変さも痛感することができた。翌年にトレードで移籍したソフトバンクでは、常勝軍団としての選手の振る舞いやチームの意識の高さに触れることができた。

 その全てが、江尻にとって「生きた教材」となったわけだ。

「日本ハムは選手教育と育成。ソフトバンクは潤沢な資金はあるけど、そこに奢ることなく若手選手も育てていますよね。でも、ベイスターズは……発展途上というか、なんて言うんでしょう。OBとしてあえて言わせていただくとすれば、『頑張ってくれよ。勝ってくれよ』って心の底から思ってしまうというか。一種の親心を抱いちゃうんですよね。

 そういった違う環境で野球ができたことって、自分にとってはすごくプラスなんですよ。全ての組織が自分を歓迎してくれるとは限らないじゃないですか。もしかしたら邪魔者扱いされるかもしれない。でも、そうならないように新しい仲間たちとコミュニケーションを取っていく。プロ野球で、それは学べたと思っています」

【次ページ】 バカな自分を演じてでも、若手に伝えたかったこと。

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