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萩野公介が悠々と超えた日本人の壁。
不可能と言われた自由形での躍進。 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byAFLO

posted2014/09/28 10:50

萩野公介が悠々と超えた日本人の壁。不可能と言われた自由形での躍進。<Number Web> photograph by AFLO

アジア大会では4個の金メダルを獲得した萩野公介。200m、400m自由形、200m、400m個人メドレーでの優勝は“マルチスイマー”の名に相応しい活躍だ。

戦略の成功、自由形の強化が結実した大会に。

 200m自由形のあと、100m背泳ぎで銅メダル、200m、400m個人メドレーで順当に優勝し、4×200mリレーでも勝ち、計4つの金メダルを手にした。

 400m自由形でも力強い泳ぎを見せた。ロンドン五輪で金メダルの孫、銀メダルの朴と、200mの時と同じライバルがそろう中、萩野は序盤からリードを奪う。追い上げられながらも両者と中盤まで激しく競り合い、一度は孫が抜け出したが、残り50mから追い上げを見せた。追いつくことはかなわなかったが、ここでも銀メダルを獲得した。

「悔しい」

 と口にした萩野はこう続けた。

「ちょっとスパートをかけるのが遅かったかなというイメージがあります」

 もっと行けたはず、という手ごたえがあったのかもしれない。

 萩野は、多くの種目で、高いレベルで泳ぐことができる選手だ。数々の大会でそれにふさわしい活躍を見せてきた。

 今回のアジア大会での自由形の成績は、戦略の成功もあるだろう。また、パンパシフィック選手権後の日本学生選手権で、ふだんは出場しない100mを泳いだように、自由形の強化に取り組んだ成果でもある。

 課題に取り組み、順調に消化できる能力の高さは、あらためて驚きに値するし、今大会は、萩野の地力をも示す大会だったと言えるだろう。

「日本人が自由形で勝つのは困難なんじゃないか」

 そして、自由形の200m、400mでの成績にはまた別の意味もある。

 1960年代はともかく、それ以降の時代は、自由形で日本の選手が世界上位で戦うのは難しいと思われてきた。1996年のアトランタ五輪の1500mで平野雅人が6位入賞を果たしているが、メダルは遥か遠いものだった。

 2000年頃だったろうか、「日本人が自由形で勝つのは困難なんじゃないか」と現場のコーチから聞いたことがある。当時、その言葉を違和感なく耳にした記憶もある。

 その後、松田丈志のアテネ五輪400m8位、奥村幸大の北京五輪200m7位などはあった。しかし、入賞は可能でもメダル、まして金となると可能性はかなり小さなものに感じられた。

 だからこそ、萩野の自由形での活躍には、日本の競泳界にとって大きな意味がある。

 ただ萩野の大会などでの言動や泳ぎなどを見ていると、こうも思える。

 萩野自身は、自由形における日本選手の壁など、あるいは自身の限界はどこにあるのかなど、いっさい考えたことはないのではないか、と。

 可能性をただ信じて挑み続ける。それもまた、萩野の強さなのではないか。

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