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早大野球部の“バント伝来”107年目。
高校野球で、その功罪を見きわめる。 

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小関順二

小関順二Junji Koseki

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photograph byHideki Sugiyama

posted2011/08/11 10:30

早大野球部の“バント伝来”107年目。高校野球で、その功罪を見きわめる。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

2010年夏の甲子園大会、優勝した興南の2番打者、慶田城開は随所にバントを決め、チャンスを広げる役割を果たした

 2003年8月14日付け朝日新聞26面のコラム欄「アルプス席」に、「バント100年 奥深く」という見出しがあって目を引いた。この記事によると、日本で最初にバントを作戦に取り入れたのは早稲田大学野球部(以下早大野球部)なのだという。早速、『早稲田大学野球部 百年史 上巻』(編纂者 飛田忠順/稲門倶楽部)を見て確認した(下記引用文は原文を尊重しつつ読みやすいように手を入れた)。

「渡米前もバントをブントと呼び、ときにこれを行うものがあったが、正式の方法を知らなかった。渡米軍の土産中、大なるものの一つである」とある。

 補足しないと「渡米」の意味がわからない。1904(明治37)年の大学野球シーズン前、早大野球部長の安部磯雄は「全勝したらアメリカに連れて行ってあげる」と部員に約束した。大和球士は『真説・日本野球史 明治篇』の中で、「部員は橋戸(信)主将以下“渡米”については欲がなかった。実現性は極めて薄いものと受け取っていた」と書いているが、学習院(2勝)、一高、慶大(2勝)相手に5戦全勝し、アメリカ遠征は俄然現実性を帯びてきた。

日露戦争中に渡米した早大野球部が持ち帰った野球土産。

 大変なのは安部である。約束はしたものの、このとき日本は日露戦争の真っ只中。渡米費用5500円(現在の貨幣価値換算で約7000万円)の捻出は普通の感覚では不可能である。反発が多い中、早大創立者の大隈重信に直訴し、実現にこぎ着ける。このとき大隈が言った言葉がいい。

「学生には学生のなすべき道がある。戦争をやるものはほかにおる……」(『真説・日本野球史 明治篇』より)

 安部は終生、この言葉を忘れなかったという。

 期間は1905年4月4日の出港から帰朝する6月13日までの71日間で、人数は安部を含めた13人。5500円という金額の重さが想像できる。そして、このアメリカ遠征は日本野球に多大な好影響を与えるのである。

 たとえば、脚絆(脛に巻いた布あるいは皮)と足袋をやめてスパイクを着用するようになったのもこの遠征以降だし、内・外野手はミットからグラブに持ち替えてプレーした。信じられないかもしれないが、それ以前は捕手、一塁手と同じように、内・外野手もミットをはめてプレーしていた。

 戦術面では、以下に抜粋したものをアメリカ土産として持ち帰る。こういうところからスタートして、現在の洗練されたジャパニーズスタイルは築き上げられたのだと思ってほしい。

【次ページ】 洗練されたアメリカ式の戦術が日本の野球を進化させた。

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