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土佐礼子「涙の数だけ強くなる」 

text by

黒井克行

黒井克行Katsuyuki Kuroi

PROFILE

posted2008/08/12 00:00

 「メダルはもちろん狙います!」

 アテネ五輪代表の座を最後の選考レースで射止めた土佐礼子(三井住友海上)はこう言い切った。

 3月14日、名古屋国際における土佐礼子の激走を頭から消し去ることができない。31㎞過ぎの上りで田中めぐみ(しまむら)にスパートをかけられ、一時は 11秒も差をつけられた。レースを見ていたほとんどの者が、土佐の惜敗を確信していたはずだ。'01年の世界陸上エドモントン大会で銀メダル、翌年ロンドンマラソンでは2時間22分46秒の好記録を出し、実力は認められていたものの、相次ぐ故障でしばらく走れない状態が続いていた。名古屋国際は実に1年 11カ月ぶりのレースだった。

 マスコミもレース当日までれっきとした選考レースのひとつである名古屋国際を、ほとんど消化レースに近い扱いをしていた。そして見ている人々もそう考えていた。内定済みの野口みずき(グローバリー)、大阪で他の有力選手を抑えて優勝した坂本直子(天満屋)、そして、東京国際で本来の力を出し切れなかったものの誰もがその力を認める高橋尚子(スカイネットアジア航空)の3人でほぼ決定という空気が漂っていたのだ。

 名古屋国際が近づくにつれ、鈴木秀夫監督(三井住友海上)は怒りで、拳を握りしめていた。

 「『この野郎!諦めてたまるか』って気持ちでした。土佐にもこう言いましたよ。

 『おい、お前はバカにされているんだぞ。お前だけじゃない、名古屋国際に出る選手はみんなバカにされているんだ!名古屋国際は消化レースだってな。俺たちには失うものはないんだから、やるだけやってやろうじゃないか!』って」

 同じ気持ちでレースに臨んでいた土佐は37㎞過ぎに田中と並んだ。テレビの音声が土佐のもがき苦しむ声をとらえると、それはゴールまで続いた。

 「最後まで信じていた」と鈴木は言う。

 「土佐という選手はとにかく粘る。たしかに、名古屋国際の直前は練習量は少なかったし、練習期間もいつもの半分でした。でも、それまでの蓄積が土佐にはあった。練習をやっていないからといってなくなるものではないんです。不安がないといえば嘘になりますが、私はそれに賭けていました。だから、田中選手に離された時だって、また戻ってくるはずだと疑っていませんでした。外見からは、おっとりしているように見えるかもしれませんが、芯の強さは誰にも負けませんから」

 チームメイトである渋井陽子も土佐についてこう語っていた。

 「私なんかより、ぜんぜん土佐センパイのほうが、負けず嫌いですよ」

 '99年、土佐は愛媛の松山大学から三井海上(当時)に入社する。が、高校生の頃から全国に名が知れわたっていた渋井とちがって、学生時代の土佐の実績は無きに等しかった。練習に参加していた高校生にも負けることもあったという。当時の5000mの自己記録は16分35秒(日本記録15分3秒67)であった。

 「この数字を見たら、どこの実業団も勧誘しません。大学の時、うちの合宿に参加したことがありましたが、さしたる印象はありませんでした。ただ、おっとりしていますが、人間の器が大きいというか、いい性格しているな、ということは覚えていました」

 入社1カ月半後には、東日本実業団という大きな大会が控えていた。土佐は1500mに出場したが、将来性を感じさせる結果は残せなかった。

 その半月後、たまたまセビリアの世界選手権に出場する選手がいたために、土佐は練習パートナーとして米コロラド州ボルダーの合宿に参加することになった。「もう、マラソンしかなかった」と鈴木は言う。

 「中距離をやってもなかなか芽が出そうになかった。だから、いっそのことマラソンをやらせてみようかと思ったんです。マラソンの練習をしてから、土佐は日増しに良くなっていって合宿の1カ月後には世界選手権の代表選手を抜いたほどです。もしあの時、土佐がマラソンに対して躊躇していたら、今の土佐はなかったでしょうね」

 土佐のランナーとしての適性がマラソンにあったのはもちろんだが、彼女の性格もマラソンにあっていたのだ。

 「土佐はこちらが黙っていても自分からやるべきことをきちんとやれるので、安心して見ていられるんです。少なくとも『何だ今日の練習は!』っていうのが土佐に関してはまったくありません。いつも120%の力を練習にぶつけてきます。むしろ、やり過ぎるところがあるのでその心配をしなくてはいけないんですよ。練習のやり過ぎで故障、そして治ったら練習でまた故障というのが土佐のここ1、2年の状態だったんです。走っていないと不安になるのもわかりますが、やっとここにきて休養も練習だと理解してくれたみたいです」

 故障の時、リハビリをかねてプールでの水中歩行を指示された土佐は、単調なこの運動を延々3時間も繰り返していた。また自転車を漕いで来いと言われると、出ていったきりしばらく帰ってこない。このときも3時間後に汗びっしょりで戻ってきたという。そのひたむきな姿に鈴木はいつもおどろかされる。しかしその姿勢が、次々と起こる故障の原因でもあったのだ。

 常に全力で練習をし、自分を追い込む。そして、それが極限にまで達すると走りながら、泣く。特に、炎天下で長距離を走るときには、かならず土佐の目からは涙が溢れ出る。万全でない状態でむかえた名古屋国際もそうだった。土佐は言う。

 「いつも聞かれますが、なぜ涙がでるのかわかりません。これからも“泣き練”はありそうです(笑)」

(以下、Number608号へ)

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