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上野広治 「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~ 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byTakao Fujita

posted2010/01/18 10:30

上野広治 「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~<Number Web> photograph by Takao Fujita

アテネ五輪の男子100m平泳ぎで北島は見事に金メダルを獲得。表彰式後、駆け寄った観客席で、北島ががっちりと握手を交わす相手が上野広治氏

「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」

 その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる'00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。

 突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。

「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」

 以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。

「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」

シドニーで4つ、アテネで8つのメダルとして結実した。

 チーム化が進んだ競泳日本代表は、シドニーで4つのメダルを獲得すると、アテネでは8個ものメダルを手にする。最初のメダルは、北島康介の100mでの金メダルだった。レースの夜、北島のコーチである平井伯昌が、どのような戦略を授けたのかを語り、他のコーチが耳を傾ける姿が宿舎にあった。

「そのおかげでコーチが戦略を修正し、獲れたメダルが2つあります」

 上野はアテネ五輪で印象に残った出来事をさらにあげた。大会を前に、宿舎に1枚の白い模造紙が貼られた。トレーナーのアイデアだった。北島の金メダルの夜、祝福のメッセージが多数書き込まれた。宿舎に戻った北島はお礼と、次の日に出場する選手への激励を書き込んだ。模造紙を介してのキャッチボールは、最終日まで続いた。この慣習は、北京五輪にも受け継がれることになった。

「北京では、ともに戦う意識が根付き、情報も共有し、目指していたチームになってきたなと思いました。北島が初出場の選手たちに、『俺も1回目は何をやっているかわからなかったんだよ』みたいな、初めて出たときの話をしたのを覚えています。そんな話もレースに臨むための準備に生きてくるんです」

【次ページ】 「オリンピックに魔物はいません」

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