上野広治 「競泳日本代表を革新した男」 ~お家芸復活の舞台裏~

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チーム・選手名
上野広治

「感謝の念もない選手は強くもなれない」

 大会や合宿に臨む際は、コーチ、選手全員そろって、あるいはコーチだけを集めてミーティングを繰り返した。何のために代表は存在するのか、どのようにして国際舞台で戦うべきか、目標の共有を図るとともに、一緒に戦う仲間である意識を根付かせるためだった。さらに、宿舎のコーチの部屋のドアを開けっ放しにすることにした。いつでも選手が訪ねてこられるように、との意図だった。

 選手には、マナーも教えた。上野には、今も忘れられない言葉がある。'98年のことだ。アジア大会の事前視察のために、各競技団体とともにタイのバンコクに向かった。その地で他の団体のスタッフから言われた。

「アトランタのときの競泳の選手たちは遊びに来たのかと思うくらい態度が悪かったね」

 大きな衝撃だった、と上野は言う。

「アトランタのメンバーは、中高生が多かった。悪気がなくても、あの年代の子たちは声も高いし、騒いでいるように見えた面もあったかもしれない。ただ、そのように周囲に映っていたのは事実だし、僕がヘッドコーチになってみると、挨拶すらできない選手もいたのはたしかです。戦う準備は一人でできるわけじゃない。裏で支えるスタッフの人々がいるからこそです。感謝の念もない選手は周囲の人々から応援されることもないし、強くもなれないと僕は思います。だから、挨拶から教えました」

代表のチーム化が形になり初めて手にした栄冠。

 地道に立て直しのための作業を続け、初めて手ごたえを得たのは、'98年の世界選手権だった。ある日、自由形の源純夏が、次のレースで泳ぐ個人メドレーの田島寧子にアドバイスを送った。

「スタート台が熱いから気をつけて」

 真夏の、屋外の大会である。知らずに台に乗っていれば、動揺していてもおかしくない。事前に情報を得ていた田島はスタート台に水をかけてから上がり、銅メダルを獲得した。小さなことかもしれない。だが上野にとっては大きな変化だった。

 チーム化の手段は、これらにとどまらない。五輪代表選考のあり方にも手をつけた。

「戦う意識のある選手がそろわなければ、オリンピックでは戦えないと思っていました。日本人の習性かもしれませんが、集団が向いている方向で個々も変化する。例えば、'99年の短水路世界選手権では5人だけに絞って連れて行きました。すると、全員メダルを獲得し、2種目で世界新を出したのです。意識の高い選手がそろえば集団自体の意識も高くなると実感した大会です」

<次ページへ続く>

► 【次ページ】 「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」

筆者プロフィール

松原孝臣

1967年、東京都生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。著書に『お酒の資格と仕事』『高齢者は社会資源だ』など。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に取材活動を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバーと現地で取材にあたる。


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