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多摩川と伊東~「地獄」が育てた「純正巨人軍」~
/特集 『ジャイアンツ、常勝帝国の新次元』 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

photograph byMakoto Kemmisaki

posted2009/07/24 11:30

多摩川と伊東~「地獄」が育てた「純正巨人軍」~/特集 『ジャイアンツ、常勝帝国の新次元』<Number Web> photograph by Makoto Kemmisaki
 巨人軍の黄金時代は、生え抜きの精鋭たちを猛特訓で鍛えることによって築かれた。多摩川で、伊東で、数多の選手がしごき抜かれ、血と汗と涙をグラウンドに流してきた。地獄から這い上がってきた男たちは、一段と結束し、戦う集団へと変貌していったのだ。

「人里はなれた多摩川に 野球の地獄があろうとは 夢にも知らないシャバの人 知らなきゃおいらが教えましょ」

 歌のタイトルは『多摩川ブルース』。V9時代に“赤い手袋”で一世を風靡した切り込み隊長、柴田勲が当時の流行歌の替え歌として作ったもので、「野球の地獄」に耐える巨人軍の二軍選手の間で脈々と歌い継がれていった。

 柴田は当時をこう振り返る。

「雨が降っても平気で練習しましたね。ONが率先して練習に取り組むのだから、下の者が文句を言えるはずもない。巨人の伝統は猛練習の歴史なのかもしれません」

 まだドラフト制度がなかった1960年代、巨人軍のユニホームに憧れて全国から集まって来た選手たちは、多摩川河川敷のグラウンドで汗を流し、泥にまみれていた。

 寮暮らしをしていた王貞治は、当時の自分をこう回想する。

「練習が終わってクタクタになって、歩くのもいやだった。多摩堤通りを通るオート三輪に乗せてもらい、中原街道と接する丸子橋のたもとで降りて、対岸にある寮まで帰るのがやっとの毎日だった」

 かつて巨人軍の強さは猛練習によって培われていた。生え抜きの選手を鍛え上げ、巨人の伝統を叩き込み、一人前に育てていく。その選手たちが戦う集団となったからこそ、数多の栄光も生まれたのだ。

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