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「今週、優勝できるから」柏をクビの後、ガンバ大阪で173勝…西野朗が攻撃サッカーの武器にした“個性の解放”“構成力”の真髄とは「反骨心はずっとあった」《インタビュー》
西野朗以前、そして西野朗以後――。
ガンバ大阪の物語を語るとき、西野の監督就任は、クラブ史における決定的な転換点となった。
彼が監督としてクラブに足を踏み入れた瞬間から、ガンバは別のチームへと生まれ変わった。戦い方も、哲学も、そしてクラブの空気さえも。
1991年の創設から最初の10年あまり、クラブは試行錯誤を繰り返した。監督が替わる度に戦い方も変わり、獲得した外国籍選手の当たり外れに成績が左右された。'97年に一度、得点王に輝いたパトリック・エムボマ効果で年間4位に食い込んだものの、順位は中位以下が定位置だった。
ところが、2002年に西野がチームを率いるようになると、状況が一変する。攻撃サッカーという進むべき道が示され、選手はもちろん、クラブ全体が一体となって同じ方向に向かって歩み始めた。
「柏レイソルでJリーグの監督になったとき、自分の仕事は中位から順位を上げることと、チームカラーをつけることだと思いました。それはガンバでも同じだった」
アトランタ五輪で日本代表の監督としてブラジルを破るマイアミの奇跡を起こしたあと、西野は'97年に柏のヘッドコーチになった。翌'98年には監督に昇格。年間8位に終わるが、'99年から2年連続で年間3位につける。この間にJリーグカップも制した。しかし、着実にチームを強化しながら2001年に1stステージで6位になると、いきなり解任されてしまう。
「このまま積み重ねたらクラブのカラーやスタイルができていくと思っていました。でも、(首を)スパッと切られてしまった」
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