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「権藤さん、すごい怒ってね」1998年の横浜ベイスターズを支えた“ベンチワーク”と“大魔神”《石井琢朗はなぜマシンガン打線のキーマンだったのか?》

2025/01/18
ベイスターズを日本一に導いた権藤監督
強力な2つの武器はあれど、それを活かすも殺すも全ては采配次第。ミーティングを嫌い、サインを出さなかった指揮官は、選手を信じることでその威力を最大限に発揮した。当時の側近2人が明かす、26年前の舞台裏――。(原題:1998[マシンガン&大魔神秘話]横浜ベイスターズ「信頼とノーサインの“権藤イズム”」)

 kill or be killed(やるか、やられるか)

 権藤博監督の座右の銘であるこのアグレッシブな言葉のもと、1998年、横浜ベイスターズは38年ぶりとなるリーグ優勝と日本シリーズ制覇を遂げた。

 その要因となったのが、“マシンガン打線”と“大魔神”佐々木主浩の存在だ。

 マシンガン打線がつながりだせば永遠とも思える時間が流れ、リードされた9回に佐々木が登場すれば、今日の試合は終わりと、相手チームは戦意を喪失した。

 この年のチームの打撃成績は打率.277、1304安打、642得点と他のチームを圧倒するリーグ1位であり、また佐々木は51試合、1勝1敗、45セーブ、防御率0.64という破格の数字を残している。

 他にも勝利の要因はあったが、やはりマシンガン打線の破壊力と大魔神の安定感は別格だった。まさに、やられる前に、やる。

 この両輪はいかにして生まれたのか?

 まず“マシンガン打線の生みの親”と呼ばれる、当時打撃コーチだった高木由一は次のように証言をする。

「'96年のオフにフロントから、来季に向け打撃に関するレポートを提出しろと言われたんです。シーズンを5位で終え、今季の反省を踏まえ、どうやってバッティングを立て直していくのかと」

 打撃陣は、石井琢朗や鈴木尚典、波留敏夫、谷繁元信、進藤達哉、佐伯貴弘といった若手が育ちつつあったが、長打を打てるのは助っ人外国人選手のロバート・ローズぐらいで、チーム本塁打は85本とリーグ最下位だった。

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photograph by Hideki Sugiyama

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