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「渡米前は、孤独だったと思いますよ」なぜイチローと松井秀喜は“日本最終年”に無双できたのか…打率.387と50本塁打の理由を探る《証言:大島公一、藤井秀悟ら》
「日本野球でやり残したことはない。そう言えるほど別格でした。同じグラウンドに居ても見ている世界が違う。一打席一打席のすべてに結果を出す、要は10割を目指していたのでしょうね。そうでなければ4割近くの数字は残せないと思うんですよ」
兵庫県神戸市。かつての本拠地・グリーンスタジアム神戸近くのクラブチーム「アスミビルダーズ」の事務所で、ミスター・ブルーウェーブ藤井康雄が振り返った。
イチローとはブレイク前から何かと気が置けない仲で、11歳上のチームの大黒柱にもかかわらず、新宿へバッシュを買いに行くのに付き合わされたりもした。現在の話しぶりからも人柄の良さが滲み出る。
「まぁ、それができてしまうのがイチローですよ(笑)。高卒1年目から『センター前ならいつでも打てる』と豪語した、なんて逸話もありますが、'94年に210本を打ちイチローフィーバーが起きてからは、もう外にも連れて歩けなくなっていましたし、チームでの移動も別になった。スタイルが違うからバッティングの話もできないしね。孤独だったと思いますよ。成績的にも3割4分、5分なんて数字が当たり前で、お客さんも次第に慣れてしまうんですから。その重圧の中でメジャーに行くと決めていた日本最後の年、3割8分7厘という自己最高の結果を残しましたからね」
仰木彬監督が4番起用を明言した理由は?
2000年のイチローは、開幕前にオリックス仰木彬監督が4番に起用することを明言。代名詞でもある猫の目打線を止め、1番田口壮、2番大島公一、3番谷佳知と上位打線を固定することを宣言した。これに対しイチローはこれまで「タイプじゃない」と抵抗感を顕にしてきた4番という打順をすんなりと受け入れている。
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