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理系の秀才がなぜ“ドラフト会議の司会者”に?「台本読むだけなら、よそでやれ」ドラフト名物アナの下積み時代…あの声の原点はディズニーランドだった
text by

谷川良介Ryosuke Tanikawa
photograph byYuki Suenaga
posted2026/10/22 11:06
数々のドラマを生み出してきたドラフト会議。聞き慣れた“あの声”の主は…
理系の秀才が高3で突然目覚めた「演劇」
1962年生まれ。神奈川県立大和高校では理系クラスに在籍し、建築系の学部に進むはずだった。父は一級建築士。だが関野が高校1年のとき、その父が倒れて半身不随となり、会社を辞めることになった。母も、元気な姿を見た記憶がほとんどないほど体が弱かった。
「会社って、こういうものなのかと子供心に思っちゃったんですよね。今なら毎日勤め続けることがどれだけ大変かわかりますけど、当時はなんだか残酷に見えた。じゃあ、自分の体を使って、自分の感性で表現していくことって何なんだろうと考えるようになって」
舞台を一本観ると、次々と観たくなった。高校3年の12月、進路を演劇へと切り替える。実技として演劇を学べる大学は限られていた。最初に試験があった玉川大学芸術学科演劇専攻に合格。急な文転に高校の教師からは叱られたが、振り切った。
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大学3年で同級生と劇団を旗揚げし、卒業後も年3回ほど公演を続けた。ただ、芝居では食べていけない。生活を支えたのは、コントやコミックバンド、パントマイム劇団としての地方公演だった。月に10日ほどは全国の小中学校を回った。
ディズニーランドで「インチキ薬売り」も
開園から5周年を迎えた頃の東京ディズニーランドのステージに立ったこともある。インチキ薬売りに扮したミュージカル仕立てのコントショーを1日5回。午前中はシンデレラ城の前で、来園客にわざと小さなガラスの靴を履かせる“シンデレラ選び”のショーも担当した。関東近郊の遊園地は、ほとんど回ったという。
「休みなく出ていたから、月30万くらいは稼げていたんです。でも仕事が終われば稽古。18歳から始めて、役者を辞めるまでほとんど遊ばなかった。おかげで子供ができてからも、遊園地に行くのが嫌で。どこから裏に入るか知っちゃってるから(笑)」
舞台に立ち続けるほど、気づいてしまうことがあった。大学の同級生には、のちに名バイプレーヤーとなる俳優・山崎銀之丞らがいた。
「同じ舞台に立つと、ああ、こういうやつが芝居で飯を食うんだろうなとわかるんです。立ち姿が違う、目線の送り方が違う。似せても、何かが違う」

