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「あっけなく、そっけなくクビ宣告」ヤクルトの名守護神・高津臣吾はなぜ、引退試合なしの戦力外通告を受けたのか…「悔しさは今でも忘れない」
text by

高津臣吾Shingo Takatsu
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2026/10/09 06:00
1997年の日本シリーズを制し、胴上げ投手となったヤクルトの高津臣吾
思えば、本当にいろいろなことがあった。じっくりと楽しんでもらえれば幸いである。
1991(平成3)年から始まるプロ野球人生――。
改めて振り返ってみると、山あり、谷あり、本当にいろいろなことがあった。
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あまりにも高いレベルの選手たちに囲まれて、「本当にこんな世界でやっていけるのだろうか?」と感じたルーキーイヤーからスタートして、2003年までの14年間で日本一に4回も輝き、いずれも胴上げ投手となることができた。
激動のプロ野球人生「記憶が曖昧に…」
さらに04年、05年はメジャーリーガーとして世界最高峰の舞台でプレーをした。06年に古巣である東京ヤクルトスワローズに復帰するものの、翌07年限りでチームを去ることになり、08年シーズン途中からは韓国のウリ・ヒーローズ、09年はアメリカのマイナーリーグへ。そして10年は台湾・興農ブルズ。さらに11~12年は新潟アルビレックスBCに入団……。
自分でも記憶が曖昧になってしまうほど、激動の、そして波乱の野球人生を送ることになった。43歳での現役引退。選手としては完全燃焼といってもいいだろう。
ここまでいろいろな国と地域で、さまざまなレベルの野球を経験することになるとは、自分でもまったく想像していなかった。僕はどちらかと言えば、積極的に環境を変えることが好きではない。むしろ、できることならば同じ環境下で何事もなく平穏無事に過ごすことを望むタイプだ。
そんな性格なのに、気がつけば誰よりもさまざまな環境下で野球をすることになった。この経験があったから、後に僕はコーチとして、二軍監督として、そして一軍監督として、さらに長きにわたってユニフォームを着ることができたのだと思う。
プロ入り時には「いつクビになるかわからない」という状態だったのに、ここまで長く野球界に携わることになったのは、本当に多くの人に助けられ、支えられてきたからに他ならない。周囲の人々には心から感謝している。
その一方で、「絶対に燃え尽きるまで野球を続けてやる」「このままではユニフォームを脱ぐことはできない」、そんな思いになったきっかけがあるのも事実だ。
それが、07年のこと――。

