甲子園の風BACK NUMBER
「ええか、戦争だけは絶対にしたらいかん」甲子園の猛将は“平和の語り部”でもあった…池田高校の快進撃が“異様な熱気”を生んだ本当の理由
text by

近藤雅人Masahito Kondo
photograph byAFLO
posted2026/08/29 11:05
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
背景に「生き延びた」という罪の意識
蔦氏は、戦争を肯定するような考え方に対しては、自身の体験から明確なアンチの意識をもっていた。戦中派によく見られる一種の皮膚感覚のようなものだったろう。だからと言って、彼が天皇制を否定するような思想の持ち主であったかというと、もちろんそのようなことはなかった。蔦氏が出席を打診され、断ったという話に私が信憑性を感じたのは、彼がつねづね戦争を生き延びたことに後ろめたさを覚えていたことを、インタビューなどで薄々感じていたからだ。
特攻隊を生き残った人たちの中には、自分だけ生き延びた、死んだ仲間に申し訳ないといった罪の意識を抱いている人が一定程度いることを手記などでよく読む。戦後育ちの我々には想像しづらい複雑な心理だが、蔦氏もそのような心理を持っていたように思う。「なんで、生き残った自分だけが、おめおめと陛下の前に出られようか」そんな思いを彼は抱いたのではなかろうか。あくまで推測にすぎないが、彼ならありうるだろうな、と私は思ったのである。
なお、後日談があって、蔦氏は1983年5月に催された春の園遊会に招かれ、出席している。昭和天皇から「野球で頑張っているんだね」とのお言葉をかけられ、蔦氏は「はい、みんなが力を合わせた結果です」と答えたという。ちなみに先の劇作家もその後、10年ほどして、さらなる大きな章を授かった。宮内庁という組織は、一度断られたからといって、それをいつまでも根に持ったりすることはないらしい。大人の組織ということなのだろうか。
蔦氏が“憲法9条講義”で語りかけた言葉
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今年の5月、朝日新聞の読者投稿欄「声」に、50代のある池田高校OBの女性が寄稿している。女性は在学時に蔦氏の授業を受けたという。社会科での憲法9条の講義のとき、蔦氏は、自分が元特攻隊員で多くの戦友たちを見送り、終戦が数日あとだったら自分も死んでいたかもしれないこと、今の平和は悲惨な戦争の上に憲法とともに成り立っていることを話した。そして最後に「ええか、戦争だけはもう絶対にしたらいかんのじゃ。絶対にだぞ!」と語気を強めて語っていたという。
甲子園では、毎年8月15日の正午、プレーを中断して、戦争で亡くなった人たちを悼んで1分間の黙祷を行う。監督・蔦文也は、猛将「攻めダルマ」であると同時に、教師としては戦争の悲哀と平和の尊さを伝える語り部でもあった。夏の甲子園にこれほどふさわしい人物は、もう二度と高校野球史上には現れないのではないか。
