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「入門2日で逃亡」のスタートから…さらば天山広吉、新日本一筋35年の激闘を語る「モンゴリアンチョップは『これやっちゃえよ』ではじまった」
posted2026/08/25 11:00
8月15日に引退試合を行い、35年のプロレスラー生活に別れを告げた天山広吉。にわかには信じがたい現役時代の秘話の数々を語ってくれた
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Asami Enomoto
天山広吉はセルリアンブルーのマットで大の字になった。
引退試合の相手に選んだ『テンコジ』の相棒である小島聡のラリアットを受けて一度はカウント1ではね返したものの、3発目で力尽きた。目をつむった後、パッと見開いて両国国技館の天井からのスポットライトの光を浴びた。その美しい光は、昨年5月に国の難病指定となっている黄色靱帯骨化症と腰椎の手術を受け、長年のケガの蓄積もあって回復が思ったように進まないなかで、今持てる力を出し切った彼に優しく差していた。
思ったように体を動かせない、足を運べない。それでも天山は岩をも裂くモンゴリアンチョップを振り、ダイヤモンドより硬いヘッドバットを叩き込み、大蛇のごとく絡みついて離さないアナコンダバイスで締め上げた。
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コンディションを考慮された「5分1本勝負」を自らリング上で無制限に切り替え、盟友かつライバルの小島と心ゆくまで戦った。新日本一筋35年の集大成。ぶつかって、食らいついて、立ち上がって、何度も、何度でも。9分22秒に及んだラストマッチには、天山広吉のすべてが詰まっていた。
入門から2日で逃げ出した
天山広吉が、まだ本名の山本広吉だったころ。
京都に生まれ、金曜8時の『ワールドプロレスリング』に熱中して初代タイガーマスクに憧れた。山城高時代にバスケットボールに打ち込んだのも、背を伸ばしてプロレスラーになるためであった。ボディビルで体を鍛え、鬼教官と呼ばれた山本小鉄が直接指導する新日本プロレス学校で学び、素質を見込まれて1990年3月に念願かなって新日本プロレス入門が決まった。しかしわずか2日で寮を兼ねた新日本道場から逃げ出したのは、有名なエピソードだ。先輩レスラーから理不尽な指令を受けて、衝動的に地元の京都に戻ってしまった。
「自分が精神的に弱かったと、書いておいてください。厳しい練習はプロレス学校でも体験していたので全然ついていけたんですけど、そういった(理不尽な)こともあったし、ホームシックみたいなものもあったかな。まだまだ子供でしたね」


