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「入門2日で逃亡」のスタートから…さらば天山広吉、新日本一筋35年の激闘を語る「モンゴリアンチョップは『これやっちゃえよ』ではじまった」
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byAsami Enomoto
posted2026/08/25 11:00
8月15日に引退試合を行い、35年のプロレスラー生活に別れを告げた天山広吉。にわかには信じがたい現役時代の秘話の数々を語ってくれた
京都に戻ると、自宅に一本の電話が入る。新日本プロレス学校で一緒に汗を流した、のちにUWFインターナショナル、リングスなどで活躍する同級生の金原弘光だった。
「金原選手が俺のことを心配してわざわざ連絡をくれて、『お前、どうして辞めちゃったの? 俺は入りたくても合格できなかったんだぞ。もう1回頑張ってみろよ』と言ってくれたんです。『小鉄さんにお願いしてみたら?』とアドバイスまでもらって、自分もそうだよなと思い直すことができた。戻ってこられたのは金原選手のおかげなんです。その後もずっと応援してくれました」
山本小鉄に連絡をして頭を下げ、5月に再入門を果たす。だが一度逃げたことで4月入門組には後輩扱いされ、先輩たちからは一段と厳しい指導を受けるようになった。
名古屋から横浜までタクシーで戻ったことも
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「1回ケツまくって逃げたヤツだから、どうせまた逃げるだろうと先輩たちの当たりはきつかったですね。新弟子の先輩後輩が逆転してしまっていたのもつらかった。年齢は関係なく、(入門が)1日でも早いほうが先輩というしきたりだったんで。でも、金原選手に背中を押されて小鉄さんに詫びを入れて戻ることができたんで、もうケツはまくれない。何があっても絶対もう逃げないってことは心に決めていました」
許可をもらって夏に京都に帰省していたとき、先輩から急に呼び出され、新幹線が名古屋止まりだったため、そこから横浜・野毛の道場までタクシーで戻ったこともある。気の休まるときとてなかったが、嫌がらせと受け取らず、精神の鍛練と思い直して耐えた。
体も心もタフに。
トレーニングに明け暮れて再入門から8カ月後、1991年1月にデビューを果たす。1993年には若手の登竜門であるヤングライオン杯で優勝を遂げて同世代の出世頭となっていく。
代名詞となるモンゴリアンチョップは、デビューから程なくして使い始めている。寮の同部屋の先輩、三沢威(現在は新日本プロレスメディカルトレーナー兼トレーニングディレクター)から勧められたことがきっかけだった。


