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「野球の神様か、あるいは…」池田高校の名将・蔦文也のナゾ「亡くなって四半世紀が経つのに…」蔦の素顔を知る“元担当編集者”の告白 

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近藤雅人

近藤雅人Masahito Kondo

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posted2026/07/29 11:00

「野球の神様か、あるいは…」池田高校の名将・蔦文也のナゾ「亡くなって四半世紀が経つのに…」蔦の素顔を知る“元担当編集者”の告白<Number Web> photograph by KYODO

池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督

 その謎こそが、日本中の人々を引き付けた蔦文也という人物の魅力の源泉ではないのか。本書は、蔦氏の周辺を念入りに取材することで、蔦の複雑なる人物像を浮かび上がらせようと試みている。

 この謎は、たまたま編集者として蔦氏の著書『攻めダルマの教育論』(1983年刊)の編集に携わった私の中にも、ずっと解けないままでいた。90年代の初めころ、蔦氏との雑談がきっかけで蔦氏の回想録を残そうという話が浮上し、長時間のインタビューを試みたことがある。そして、当時はまだお元気だった蔦氏に縁のある諸先輩を訪ね歩いた。この試みは、蔦氏が体調を崩されたことで残念ながら頓挫した。当時まとめた原稿と取材録はダンボールに詰め込まれ、私の自宅の押し入れ奥深くに長年、眠っていた。今回、久しぶりにそれらを引っ張り出してきて読み返しながら、田中仰氏の著書を読み、この原稿を書いている。

蔦が味わった挫折、死の恐怖を紛らわせた酒

 蔦氏が名家の坊ちゃんで大事にされて育ち、戦前に徳島商業のエースとして甲子園に出場、脚光を浴びるも敗退して挫折。大学野球に進んだが、学徒動員で召集されて特攻隊の一員に。時の巡り合わせで出撃を免れ終戦を迎えた。その頃、死の恐怖を紛らわすために酒を覚えたというエピソードは、生前の蔦氏が赤裸々に語っていた。戦後は、社会人野球で活躍、プロ野球の東急フライヤーズで背番号16(打撃の神様・巨人軍川上と同番号だった!)を背負ったものの、肩を壊していたために活躍できず、郷里であった徳島の池田町(現・三好市)に都落ち。「田舎教師」となって野球部監督として戦後を過ごしたという経歴も、生前に蔦氏自らが明らかにしている。

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 田中氏はこれらの逸話と、きめ細かな取材をつなぎあわせ、時代背景をひも解きながら蔦氏の心中に深く入り込んでいく。本書で田中氏が浮かび上がらせた蔦氏の複雑な人物像は、私が蔦氏からじかに聞いていたものと、ほとんど乖離がない。そのような人物が1950年代から甲子園に初出場した70年代初頭まで、長きにわたって四国の山間の地で甲子園を目指して悶々としていたのである。そこにこそ、蔦文也という野球人のコアな部分があるという田中氏の見立ては、私もまったくの同感である。田中氏が描き出した蔦文也という人物の鮮やかな造形は見事で、ノンフィクション文学の秘儀をみるかのようだ。この本を手にした人たちはみな様々な感慨を抱くのではないか。

【次ページ】 “2つのイメージ”からはみ出した部分

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