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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「選手、チームをよく見ろ」“PL伝説指揮官”の金言を胸に…ソフトバンク大野稼頭央を育てた59歳が挑む、27年間甲子園から遠ざかる公立校の復活
posted2026/07/11 11:03
鹿児島商の塗木哲哉監督
text by

広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
進学校出身…訳あって2年でやめたが
今夏の鹿児島県選手権大会では、鹿児島市立鹿児島商業が第4シードになっている。1回戦の加世田戦に4−0で勝利した鹿児島商業は県選手権大会13回優勝、春12回、夏13回の甲子園出場を誇る屈指の強豪だが、甲子園出場は春は2007年、夏にいたっては、1995年を最後に遠ざかっている。夏の県大会もここ10年は進んでも4回戦までだった。
今の鹿児島県は私学が強いが、久々に期待が持てる夏になっている。
筆者が鹿児島商業の塗木哲哉監督を知ったのはグラウンドではない。野球の研究者が集う「日本野球学会」の会場だった。
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塗木監督は、高校生が自分たちで考えた研究の代理発表をするために、会場に来ていた。そのキャリアからしても、塗木監督は「ただ勝利を目指す指導者」ではないといえる。春、鹿児島商業のグラウンドで話を聞いた。
塗木監督は県下屈指の進学校、鶴丸高校の出身である。
「本格的に野球を始めたのは、高校に入ってからでしたが、ちょっと訳があって2年生でやめてしまったんです。そして鹿児島大学に入ってまた野球をやり始めて、当時は投手でした。4年生の最後の試合に負けて、これまでの自分の野球人生をすごく悔いたんですよね。 もっと一生懸命やりたかったはずなのに、どこかうつろな自分がいて、野球は好きだったからここまでやったんだけど、自分自身に対して納得もできてないし、それで、もうこれで野球ができなくなると思ったときに、なんかすごく涙が出たんですよね。
試合に負けて、長崎市の歩道橋の上を歩いている時に『俺は、高校野球の監督になる』と突然言い出した。周囲にいた仲間は『だからどうしたんだ』と思ったでしょうね」
PLの中村元監督のもとにいって
とはいえ、監督になるまでの道のりは決して平坦だったわけではない。
「理学部の数学科で、一応教員免許は取っていたのですが、もう1回勉強しなおさないと、教員にはなれないと思って大学院にいこうと思いました。ただ1年目は自分が専攻していた鹿児島大の理学部数学科の院も含めて全て落ちました。
でも、どうしてもあきらめきれなくて、筑波大の研究生になりました。次の受験でダメなら鹿児島に帰るつもりでした。翌年、無事に合格して筑波大学大学院で勉強をした後、鹿児島に戻って教員になりました」

