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「逃げなかったら必ず振り下ろします」ダンプ松本が“腹をくくった瞬間”…極悪同盟マネージャーの証言「常に新しい凶器を探せの指令が…」

posted2024/11/29 17:00

 
「逃げなかったら必ず振り下ろします」ダンプ松本が“腹をくくった瞬間”…極悪同盟マネージャーの証言「常に新しい凶器を探せの指令が…」<Number Web> photograph by Kaoru Kage

一昨年の影かほるの誕生日にダンプ松本から送られた写真

text by

伊藤雅奈子

伊藤雅奈子Kanako Ito

PROFILE

photograph by

Kaoru Kage

 ド派手なメイクと奇抜なヘア。あまたの凶器を振り回し、悪行の限りを尽くしたヒール軍団。しかし、その内実は傍若無人な姿とは裏腹に規律と統率の取れた一枚岩の集団だった。ダンプ松本のマネージャーも務めたメンバーと全女の名物実況アナが当時を振り返った。
 発売中のNumber1109号に掲載の[当事者たちが語る]影かほる/志生野温夫「素顔の極悪同盟 」より内容を一部抜粋してお届けします。

ダンプ松本のよき理解者「かほちゃん」

「極悪同盟は家族だよね」

 当時メンバーだった影かほるは、こう言った。影は、1985年8月28日に大阪城ホールで行われたダンプ松本対長与千種の敗者髪切りデスマッチで、ダンプの影武者としてリングデビュー。極悪同盟では後輩だったが、プロレスと芸能の超過密スケジュールに追われたダンプのマネージャーも兼務していた。本名は田口かほるで、ダンプから「かほちゃん」と呼ばれる縁の下の力持ち。ダンプのよき理解者であり、団体の功労者だった。

 極悪同盟が全日本女子プロレス興業(以下、全女)のヒールユニットとして始動したのは'84年。松本香がダンプ松本に、'80年デビューの同期であるマスクド・ユウ(本庄ゆかり)がクレーン・ユウに改名して、東京都立川市の興行主だった阿部四郎が悪役レフェリーとして加わって、スタートした。翌'85年4月26日に島根・鹿島町立体育館で行われた極悪対決で、ユウが離脱。以降、家長のダンプは'88年2月25日に川崎市体育館で行われた引退試合まで、“未成年の娘たち”にとっての父となり、母となった。

 長女は、17歳で髪の左半分をそり落とした中野恵子改め、ブル中野。次女は、プロ2年目で悪の道に進んだ斉藤真知子改め、コンドル斉藤。その下には'85年デビューの岩本久美子、石黒泰子、影かほる、仲前芽久美、坂本あけみなどが相次いでファミリー入り。'86年にデビューした宍戸江利花こと後のアジャコングも、極悪同盟のもとでヒールのイロハを学んだ。

字がきれいなダンプが書いた5箇条

 移動はベビーフェイスが2階建てバスで、極悪同盟は通称・赤バス。車内には、「5箇条」と書かれた紙が貼ってあった。仲間の悪口は言わない。陰口は言わない。内緒話をしない。告げ口はしない。待たせる人間より待つ人間に。

「これは、字がすっごくキレイなアウさん(ダンプの愛称)が書いたもので、本人は全部守ってたよ。たとえば、13時が待ち合わせの時間だとするでしょ。先輩はだいたいギリギリ、もしくは遅刻してくるのが当たり前。でも、いちばん上の先輩であるアウさんが、30分前に来ちゃう。そうすると、2番手、3番手の先輩たちも順々に早くなっていく(笑)」

 車内でも、ダンプの人となりが見られた。

「アウさんは、厳しくて面倒見がいい人。曲がったことが大嫌いだから、5箇条のどれかを破ったり仕事でミスすると、バス掃除1カ月の罰があったの。一度、中野さんが大遅刻して掃除をやらされたんだけど、後輩からすると2番手の中野さんにさせるわけにいかないから、こっそり替わった。そしたらバレちゃって、『後輩にやらせて何やってんだ!』って怒られて、中野さんがもう1カ月延長させられた(笑)」

【次ページ】 ダンプ松本が腹をくくった瞬間

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