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野ボール横丁BACK NUMBER
大谷翔平が発言「人生最高の試合」たった1人、大谷からタイムリーを打った男の“その後”「仙台育英で3年間ベンチ」「大学野球部をわずか3カ月で退部していた」
text by
中村計Kei Nakamura
posted2024/09/29 11:03
大谷翔平「人生最高の試合」でただ1人タイムリーヒットを打った笹川裕二郎さん(仙台育英高時代)
笹川 稀です。当時は3、4年に1人いるかいないかだと思います。今はもうおそらくいないのではないでしょうか。普通は夏のオープンキャンパスに参加して、監督(当時は佐々木順一朗氏)と面会して……というのが一般的な流れだと思います。私は合格のあと3月30日ぐらいに初めて野球部のグラウンドに行ったんですけど、もう寮も下宿もいっぱいで。近くにアパートを借りました。福島から母親に来てもらって3年間、一緒に住んでいたんです。親には迷惑をかけましたね。
――大谷が実は仙台育英に入るかもしれなかったというのは知っていましたか?
笹川 あとになって知りました。あくまでも噂ですけど、私たちの間では、どうやら大谷が菊池雄星さんに憧れているらしく、本当かどうかはわかりませんけど、周りの大人たちが菊池雄星さんを使って花巻東に入れさせたみたいな話になっていましたね。
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――多少、尾ひれがついている気はしますね。笹川さんは中学時代も投手で4番だったのですか。
笹川 いや、私のボールを受けられる人がいなくて、キャッチャーとショートをやっていました。だからピッチャーをやりたくて仕方なくて。高校に入ったら、またピッチャーをやるつもりでいました。
「レギュラー組はオラオラだった」
――同期には仙台育英の附属中、秀光中から上がってきた渡辺郁也というスター選手もいたわけですよね。小・中学時代、東北では大谷以上に有名だったという。
笹川 渡辺は中学時代に雑誌とかでも取り上げられていましたから。中学時代から140キロ投げていると聞いていて、実際に見たら本当に140キロ出ていて。もう終わったなと思いました。私はまだ130キロ出るか出ないかという程度だったので。渡辺は、身長は170センチぐらいだったんですけど、しなやかで、馬力もあるし、コントロールがめちゃくちゃよかったんです。1年夏に渡辺がベンチ入りした時点で、もうエースは確定だなと。当時の監督はエースを決めたら、そのエースと心中するというスタイルだったので、他のピッチャーはいらないんだろうなと思ったんです。
――渡辺からエースの座を奪い取ってやろうと思ったことはないのですか。
笹川 一切、なかったですね。僕の性格というか、キャラも要因だったのかもしれません。私たちの学年はレギュラー組のオラオラしている人たちと、サブ側の人たちでわかれていて僕はサブ側の人間だったので。高3夏の甲子園でようやくベンチ入りしましたが、出番は回ってきませんでした。なので、高校時代はいい思い出はほとんどないと言っていいかもしれません。
――レギュラー組はやっぱりオラオラ系なわけですね。
笹川 そうじゃないとやってられないんだと思いますよ。渡辺もオラオラしていましたね。私もさんざんいじられましたから。ただ、2年ぐらい前かな、高校卒業してから初めて渡辺に会ったんです。飲みに誘われて。そうしたら、とげとげしさがなくなっていて。別人みたいになっていました。本当に渡辺なの? って。本人は「俺も大人になるよ」と言っていました。大学、社会人で苦労したんでしょうね。観られる側にいた人間が観る側に回るときって、すごい葛藤があると思う。そこで変わったんじゃないですか。
「なぜ大学野球部を3カ月で退部したか」
――笹川さんは高校卒業後は同志社大学でプレーを続ける予定だったものの、わずか3カ月で退部してしまったんですよね。