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「お前が監督か。他におらんのか?」野村克也がヤクルト高津監督に贈った“最後の金言”「野村監督の言葉はいつも答えではなく問いでした」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2022/03/24 17:04
1995年、高津臣吾(現ヤクルト監督)とがっちりと握手をする故・野村克也監督。高津がクローザーとして覚醒した背景には、野村監督の「問い」があった
僕のケースで言えば、1992年の日本シリーズが終わって、翌93年のペナントレースが始まるときに「問い」を与えられました。それは、「150kmの腕の振りで遅いスライダーを投げられるか?」というものでした。前年の日本シリーズでヤクルト打線は、西武・潮崎哲也のシンカーに完全に抑え込まれました。それを見て野村さんは「速い球でなくても抑えられるんだ」ということを僕に伝えたかったんでしょう。
だけど、出題するのは簡単ですけど、実際に答えを見つけるのは本当に大変でしたよ(笑)。元々投げていたシンカーは120~125km程度でした。でも、野村監督は「100kmぐらいで投げろ」と言い、同時に「150kmの腕の振りで」とつけ加えました。何度も「こんなことできないよ」と思いながら、いろいろと握りを変え、さまざまな腕の振りで試行錯誤を繰り返し、ようやく93年の夏頃から、相手打者のタイミングがずれ始めたのがわかりました。この年の日本シリーズで僕が胴上げ投手になることができたのは、間違いなく100km台のシンカーのおかげでした。
その後、97年頃には110km台のシンカーをマスターしました。これで、速いシンカー、遅いシンカー、そしてその中間のシンカーと3種類を投げ分けられるようになり、この年も日本一となることができました。これも、野村監督の「問い」に対する「答え」を探し求めた結果でした。
第一声は「お前が監督か。他におらんのか?」
「問い」に対する「答え」を必死に探し、見つけることができたことが、その後の僕のプロ野球人生に大きな影響を与えてくれたんです。だからこそ、こうして監督として今もヤクルトのユニフォームを着ることができているんだと思います。
監督就任が決まり、真っ先に野村監督のご自宅に報告に行きました。そのときの第一声はいかにも野村さんらしいものでした。
「お前が監督か。他におらんのか?」
でも、絶対に口には出さなかったけど、僕が監督に就任したことをとても喜び、僕がどんな野球をやるのか、20年シーズンを楽しみにしていたはずです。それを見ていただけなかったことが残念です。さらにこのとき、こんな言葉もいただきました。