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《現役引退》南ア撃破の“10番”小野晃征が次世代SOに期待する2つのこと「僕が意識していたのは『人を知る』ことです」

posted2021/09/28 11:03

 
《現役引退》南ア撃破の“10番”小野晃征が次世代SOに期待する2つのこと「僕が意識していたのは『人を知る』ことです」<Number Web> photograph by Nobuhiko Otomo

2016年度、サントリーのシーズン全勝に貢献した小野晃征(左)。筑波大に在学したまま日本選手権決勝に出場したパナソニックSO山沢拓也をねぎらった

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大友信彦

大友信彦Nobuhiko Otomo

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Nobuhiko Otomo

 9月22日、ラグビーの新リーグ「リーグワン」でディビジョン3に振り分けられた宗像サニックスブルースから、追加新入団選手と追加退団選手が発表された。

 退団選手として記されていた名前は「小野晃征」。

 日本代表のSOとして2015年ワールドカップ初戦、南アフリカ戦勝利の立役者となった名司令塔は34歳になっていた。サニックスとの契約は来季(2022年)まで残っていたが、6月の段階で退団と現役引退を決意。すでに家族とともにニュージーランド(以下、NZ)へ帰国している――そう、小野は漢字表記の名を持つ日本人選手であると同時に、NZで育った逆輸入司令塔だったのだ。

NZ育ちのSO、19歳で代表初招集

 引退発表から2日、小野へのオンラインインタビューが実現した。Zoomの画面で向かい合うと、初めて小野を取材したときの場面が甦ってきた。2007年2月、W杯に向けて始動した日本代表に招集されたとき。当時の小野は、まだ19歳だった。

「日本語も全然話せなくて、何も知らない中で、本当にいろんな方に助けて頂きました。日本でプレーした初めての試合が韓国とのテストマッチ。普通はキャリアを積んでステップアップしていった先にテストマッチがあるのに、珍しい例ですよね(笑)」

 小野は日本で生まれ、3歳のとき家族でNZのクライストチャーチに移住。6歳でラグビーを始め、U10からU19まで各年代のカンタベリー代表に選ばれ、アンドリュー・マコーミックやダン・カーターを輩出したクライストチャーチ・ボーイズハイスクールで、一軍のSOとして活躍した。

 その情報を聞きつけた日本代表のヘッドコーチだった、JKこと、ジョン・カーワンから連絡を受けて来日。そこから冒険は始まった。

「プレッシャーは感じてなかった」

 20歳の誕生日の5日後、秩父宮ラグビー場で行われた韓国とのテストマッチに、小野は57分から途中出場。最初のボールタッチでWTB小野澤宏時に絶妙のキックパスを送り、みごとトライ! と思われたが、惜しくも判定はオフサイド。「ファーストタッチでのトライアシスト」は幻に……それでも終了直前には日本代表史上最年少でのゴールキックを成功させた。

 ファンは初めて見る若き逆輸入SOのプレーに心躍らせた。

「プレッシャーとかは……あまり感じてなかった気がします。緊張はあったけれど、当時は何よりもラグビーが好きで好きで、新しい場所で新しい仲間と高いレベルのラグビーができることが嬉しくて、ワクワクしていた方が強かった。当時は日本のラグビーなんて、NZでは全然見ることができなかったし、ラグビー用語も違う言葉が結構多かった。そもそも日本語ができなかった」

 NZでも家の中では日本語で生活していたが、教育熱心な両親の元、身につけていたのは正しい、ちょっと古風な日本語だった。悪い言葉とは無縁。「他の外国人選手のほうがいろんな日本語を覚えていましたね」と笑う。

【次ページ】 2007年W杯では20歳で「10番」を背負う

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