オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(3)>
ミュンヘン五輪「神からのメダル」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/01/26 11:30
レスリングフリー62kg級で4位となった阿部巨史。メダルの期待をその一身に背負っていた。
2位の賞状は後で破って捨てていた。
のちにコーチに聞いたところ、アブドゥルべコフが試合中に話しかけてきた言葉の意味は『引き分けでポイントを分け合おう』という趣旨のものだった。
「でも私は真っ正直に勝負にいきました……。当然ですよ。ずっと金メダルしか考えずにやってきましたから」
金メダルにしか価値を見出さない。その精神は当時の日本レスリングの根幹だった。
「八田会長は『2位、3位をめざしているようでは永遠に1位にはなれないだろう』といつも言われていました。夢の中でも金メダルを取れと、それぐらいになるまで自分を信じて、努力して、念じろと」
八田一朗。終戦翌年から40年近くに渡って協会長を務めた日本レスリングの父である。自ら強化の先頭に立ち、負けたら上から下まで全身の毛を剃るなど徹底した勝利追求によって東京5個、メキシコ4個の金メダルをもたらし、参議院議員にもなった。
阿部は北海道・旭川で生まれ、中学生のとき、1960年ローマ五輪で金メダルなしに終わった日本代表が八田を筆頭に全員、頭を丸めて帰国した姿に衝撃を受け、憧れを抱き、自然とレスリングを志していた。
やがて専修大でインカレ3連覇、自衛隊に進んで全日本選手権3連覇とフリースタイル62kg級で敵なしとなった。
「大会で2位になると、もらった賞状は後で破って捨てていました。縁起の悪いものは持っていない方がいいだろうと」
めざすは金メダルのみ。頼るは己の強さのみ。それが阿部の生きる世界の理だった。
「勝ち組か負け組か噂するような」
だが、冬の気配がしのび寄る9月の西ドイツで、その世界は崩壊した。6戦目、メダル圏内にいたトルコの選手は阿部の足にしがみついて離れなかった。すでに目標を失った日本のエースは判定負けし、姿を消した。4位という結果だけが残った。金メダルを手にしたのは引き分けを持ちかけたアブドゥルべコフだった。
全てが終わった後、阿部は表彰式を見た。
「客席から同郷で同学年の加藤(喜代美、フリー52kg級)が表彰台の真ん中で金メダルをかけてもらっているのを見たんです。あの光景は今もはっきりと覚えています」
アリーナ内で隔絶される勝者と敗者。今まで認めていなかった側に自分がいることを、眼前の景色が阿部に告げていた。
帰国後、25歳の若者はこれから自分が生きていく世界が見えなかった。
「レスリング選手をやめたら警視庁機動隊に行くか、自衛隊体育学校や大学に残って指導者をするか。それしか選択肢はありませんでした。なんか、日本の社会をすごく窮屈に感じて……。男は25歳までに結婚して30歳で家を持って、それができない者は負け組だというような時代でしたから。郷里でも勝ち組か負け組かとひとの人生を噂するような空気を感じて……」