スポーツ・インサイドアウトBACK NUMBER
ワールドカップと最短退場者。
C・サンチェスは史上2番目だった。
text by
芝山幹郎Mikio Shibayama
photograph byAsami Enomoto
posted2018/06/21 17:00
日本にとっては幸運、コロンビアにとっては悪夢。カルロス・サンチェスの退場劇は試合の流れを決定づけた。
警官にはさまれ、ピッチを強制退場。
こんな背景があれば、乱闘の起こらないほうがおかしい。6万6000人の大観衆を前に、両国は醜態の限りを尽くした。罵倒し合い、唾を吐きかけ合っているうちはまだマシだ。つかみ合い、殴り合い、両足での踏みつけ合いがはじまるに至っては、警察も介入せざるを得ない。
開始後8分、英国人レフェリーのケン・アストンは、チリのFWオノリノ・ランダに暴行を働いたイタリアのフェッリーニに退場を宣告した。が、フェッリーニは指示に従わない。写真を見ると、彼は両側を警官にはさまれ、強制的にピッチから退去させられている。
追放されたのは、フェッリーニだけではない。41分には、イタリアのDFマリオ・ダヴィドが、チリのMFレオネル・サンチェスの喉元めがけてハイキックを見舞い(空振りに終わったが)、退場処分を受けた。しかしその数分前、レフェリーの死角で、L・サンチェスはダヴィドにパンチを食わせていたのだった。L・サンチェス(プロボクサーの息子だった)は、そのあともイタリアのFWウンベルト・マスキーオの顔面にパンチを炸裂させ、鼻骨を折っている。
この泥仕合を契機にイエロー、レッドが。
9人になったイタリアは、結局0対2で敗れ、決勝トーナメントへの進出を逃した。地元開催のチリは、不評を受けつつも勝ち残り、3位の成績で大会を終える。〈サンチアゴの戦い〉の数日後、試合の様子は英国のBBCで放送され、《サッカー史上、最も愚かで、最も醜悪で、最もおぞましく、最も不名誉な一戦》と断罪されることとなった。
レフェリーのアストンは、この試合を契機に、イエローカードやレッドカードの導入を発案した(警告や退場のルールは1881年から存在したが、カードは使われていなかった)。
カードの必要性は'66年のイングランド・ワールドカップでも議論され(準々決勝のイングランド対アルゼンチン戦で、ドイツ人レフェリーの口頭での注意が不明確だったのだ)、結局、'70年のメキシコ・ワールドカップから実際に採用されるようになった。その後、泥仕合の数は……かなり減少したはずだ。