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セレッソ優勝争いの立役者!
家長昭博の野望は4年後も捉える。 

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佐藤俊

佐藤俊Shun Sato

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photograph byYUTAKA/AFLO SPORT

posted2010/09/24 10:30

セレッソ優勝争いの立役者!家長昭博の野望は4年後も捉える。<Number Web> photograph by YUTAKA/AFLO SPORT

ガンバからのレンタル移籍期間は来年の1月31日までの家長。今季終了後、ガンバに戻るのか否か?

 9月18日、大阪ダービーは、3-2でガンバ大阪の勝利に終わった。

「最初、簡単にやられすぎた」

 家長昭博は、苦い表情で、そう言った。

 セレッソは、前半12分までに、2点を失った。後半に入って、10人ながら2点差を跳ね返して同点に追い付き、引っ繰り返しそうな勢いも見せた。だが、最後は地力の差が出て、8試合ぶりの黒星となった。

「負けたけど、やられた感はない。後半は、けっこうやれたんで」

 だが、家長個人にとってはちょっぴり痛い敗戦になった。ジュニアユースから世話になった古巣との戦いに敗れ、代表監督のザッケローニの視察の中、十分なアピールができなかったのだ。

A代表とブラジルW杯は遠い夢から現実のものへ。

「ガンバと戦うというのは、試合前も試合中も意識しなかった。離れて、ずいぶん経ちますからね。ただ、代表のザッケローニ監督が見にきているのは、多少、意識しました。やっぱり結果を出して、いいアピールができればと思っていたんで。でも、今回で終わりというわけじゃないし、まだ見てもらえるチャンスはあると思うんで、次回、結果を出して代表に入れるようにやりたいです。W杯? もちろん4年後は視野に入っています」

 家長は、淡々とした表情で、そう言った。

「おやっ」と思ったのは、代表への意欲を言葉にしたことだ。ガンバ時代はもちろん、大分時代にも日本代表を意識した言葉は、ほとんど聞いたことがなかったのだ。

 家長にとって、A代表とW杯は遠い存在だった。2006年ドイツW杯の時は、プライベートで観戦に訪れた。「ほんまのW杯は凄かったし、おもろかった」と家長は言っていたが、本人の口からは「いつか自分がW杯に出る」という決意めいた言葉は一切聞かれなかった。2007年、オシム日本代表監督の時に初めてA代表に招集され、同年3月のペルー戦で後半40分から途中出場した。だが代表での試合はこの1試合のみで、2010年南アフリカW杯も結局自宅でテレビを見ていた。

 その家長が代表やW杯に向けての気持ちを公言するようになったのは、厳しい体験と意識の変化に因る部分が大きい。

 ガンバ時代は、ガンバの未来を背負う逸材と期待されたが、西野監督に求められるプレーと自分のプレーが噛み合わず、2008年、大分トリニータに期限付き移籍をした。

【次ページ】 専門外のボランチでの経験がプレーの幅を広げる契機に。

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