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甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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photograph byKatsuro Okazawa/AFLO

posted2024/02/09 11:02

甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa/AFLO

1982年夏の甲子園で優勝した池田高校。2試合連続本塁打など攻守で活躍した山口博史(写真)だったが、なぜ「9番」という打順だったのか

 進路の時期になると、山口の心は揺れた。既に2年の時に蔦監督からスカウトされていたが、同級生にいい投手が2人いた。遠野誠明と畠山準。山口は練習試合で対戦していた遠野と知り合いで、後に池田でチームメートになる畠山とは面識がなかった。遠野が徳島商に行くと聞かされてから山口の気持ちは、徳島商に傾いていた。そんな時、中学の監督からアドバイスを受けた。

「うちからは歴代のキャプテンも池田に行っている。それに、将来を考えたら普通高に行った方がいい」

 確かに山口の三つ上の主将からは、高校で野球を続けるなら池田に進学していた。主将=池田。揺れていた心も監督から諭されたら自然とそのコースに進むことで決心がついた。1980年春、山口は徳島県の山間にある池田の門をくぐった。

「高校が決まってうれしかったのは、親父と離れて、あの生活から逃れられることだった」

 池田は寮生活だった。朝食、夕食が毎日、用意されている。幼い頃から父が家に帰ってこなかった山口にとって、食事が当たり前にある生活は初めてだった。

 これで存分に野球に打ち込める。しかし、甘かった。淡い期待は、蔦監督から打ち砕かれることになる。

後編に続く)

#2に続く
甲子園スターが経験した“陰湿なイジメ”と“父との絶縁”…やまびこ打線「恐怖の9番打者」が語る波乱万丈の人生〈息子も甲子園出場、現在はIT社長〉

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