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甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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photograph byKatsuro Okazawa/AFLO

posted2024/02/09 11:02

甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa/AFLO

1982年夏の甲子園で優勝した池田高校。2試合連続本塁打など攻守で活躍した山口博史(写真)だったが、なぜ「9番」という打順だったのか

 大会には絶対的なスター選手がいた。早稲田実(東東京)の投手、荒木大輔。5回目の甲子園出場となる集大成の夏に、メディアは連日「大輔フィーバー」を報道した。山口にとっても荒木は憧れだった。「甲子園に行きたいというよりも、荒木大輔と対戦したいという思いが強かった。キャプテンにも『早実との試合を引いてくれ!』と頼んでいた」

 その願いは準々決勝で実現した。試合は接戦との戦前の予想を覆す一方的な展開となり、池田が14対2で圧勝。山口は2打数2安打1打点と荒木を打ち崩す立役者の一人となった。試合終盤には二塁走者の荒木が、ベースカバーに回った山口に「もう勘弁してくれ」とつぶやいたという。

 早実を破った池田は、準決勝で東洋大姫路(兵庫)を下し、決勝戦も名門・広島商に12対2で快勝。当時のチーム大会最多安打となる85安打(6試合)を放って、初めて日本一に上り詰めた。

 試合が終わって徳島に戻ると、数千人が彼らを出迎えた。バスで池田に戻る途中、沿道で旗を振っている人たちの姿が、山口の瞳に映った。誰にも見送られずに甲子園へ発った時とは、何もかもが違っていた。

「こんなに多くの人が集まるなんて……正直やばいなと思った」

 この時、山口は自分の人生が大きく変わったことに気づいた。

 バスは不思議と自分が育った街並みに沿うようにして走っていく。ふと、あの頃のことを思い出した山口の頭には、全国制覇という栄光と裏腹に、これまで誰にも打ち明けたことがなかった過酷でつらい日々が蘇っていった。

7歳で両親が離婚「父はだらしない人だった」

 日本で初めて開催される東京五輪まで4カ月を切った1964年6月25日、山口は徳島市佐古町(当時)で生を受けた。

 7歳の時に両親が離婚し、一人っ子の山口は父との2人暮らしが始まった。父は徳島県内を転々とした。佐古町から美馬市脇町へ、さらに山口が中学生になると吉野川市鴨島へと引っ越した。

 野球を本格的に始めたのは脇町の小学校のチームに入った小学2年の時だった。

 学校が終わって家に帰ると父の姿はなく、いつも一人だった。寂しさを紛らわすためにグラウンドで野球をした。チーム練習が終わっても、残ってボールを追いかけた。夜になると、大人のナイターソフトボールに参加して汗を流した。

 父から夕食を用意されたことはなく、学校の先生が残してくれた給食を持って帰っては、空腹をしのいだ。

「あまり言いたくはないけど、父はだらしない人だった。俺は家にいたくなかったから、外で人一倍、野球をずっとしていた」

 事情はどうであれ野球漬けの環境が、山口の能力を一気に開花させた。鴨島第一中では、1年秋から3番ショートでレギュラーとして活躍。3年で主将に就任した。

【次ページ】 「親父と離れられる」と思った寮生活だったが…

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