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野村克也が命名、F1セブンは「単なる思いつきですよ」阪神時代の腹心&選手が振り返る“アレ”「監督自らホームスチールの指導を…」「野村さんはキャッチコピーの名人」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2024/02/11 06:00
1999年から2001年まで指揮を執った野村克也。阪神監督時代、今なお虎党の間で語り継がれる「F1セブン」が誕生したのは2001年だった
「キャンプでは初日から練習後にミーティングがありました。他の選手を見ていると、しっかり聞いていない選手も少なからずいた印象でした。自分もまだ若く、当時はこのミーティングを通して変わってやろうという意識は薄かった。今思うともったいないことをしたなと思います」
野村が授けた秘策“ホームスチール”
それでも野村は、チーム一の俊足に目をかけていた。
「春のキャンプでは監督から直々にホームスチールの指導を受けました。現役時代に監督自身もホームスチールを成功させていることもあって、自ら手本を見せてくれました。他にもダブルスチール、2ランスクイズも練習したし、この年、実際にホームスチールのサインが出たこともありました」
記録を調べてみると、1999年9月9日の対中日ドラゴンズ戦の7回裏のことだった。
「ピッチャーは左の前田(幸長)さんでした。ベンチから、“来い”みたいなジェスチャーが出ているんです。当時の三塁コーチは福本(豊)さんだったんですけど、福本さんに“行っていいんですか?”と確認して、スタートしたんです……」
しかし、結果は本塁で憤死。高波には盗塁死が記録されることとなった。
「……ベンチに戻って、“タイミングが悪い”と野村さんに叱られました」
走塁の作戦が成功し、すごく喜んでいた
野村の前任者である吉田義男監督時代の1998年シーズン。阪神のチーム盗塁数はリーグ最低の28個。「足にスランプはない」が持論の野村が、監督就任直後の1999年キャンプで最初に着手したのが「走塁への意識づけ」だった。高波は言う。
「ランナー二塁の場面でサードゴロが飛んだとします。サードが一塁に送球する間に三塁を奪う。そんな練習もしました。一度、オープン戦で成功したんですけど、そのときに監督がすごく喜んでいらっしゃったことをよく覚えています」
2年目の中盤から野村さんの考え方が変わった
「4号車」の上坂太一郎は2000年に王子製紙春日井からドラフト5位で入団。社会人野球で活躍した上坂は、自分のやってきた野球に自信を持ってプロ入りしたが、野村ノートに目を通した瞬間に驚愕したという。