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「ヒデトシ・ナカタは素晴らしいパサーだった」W杯優勝の名MFジーニョが語る“日本と横浜フリューゲルス愛”「もしJクラブで働くチャンスがあれば…」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2023/11/12 17:00

「ヒデトシ・ナカタは素晴らしいパサーだった」W杯優勝の名MFジーニョが語る“日本と横浜フリューゲルス愛”「もしJクラブで働くチャンスがあれば…」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

ブラジル代表の名手であり、横浜フリューゲルスでも輝いたジーニョ。いまは何している?

「リバプールでの試合は、左CKからのクリアボールを左足の外側でカーブをかけて決めた。2点目は、右からのパスを受けて、ニアサイドに強く蹴った。どちらも狙い通りのゴールだったから、良く覚えている。

 当時、日本代表は1994年W杯出場を惜しくも逃し、1998年大会での初出場を目指して強化に励んでいた。いずれの試合でも日本も果敢に攻めて何度も決定機を作っており、点差ほどの力の差はなかった」

マエゾノとヤマグチ、対戦対手ではナカタと…

――当時と現在を比べて、日本代表の進化をどう考えますか?

「当時はJリーグ創設から間もない頃で、日本のフットボールはアマチュアからプロへの過渡期にあった。その後、Jリーグのレベルが向上し、選手の個人能力も高まり、近年は大勢の日本人選手が欧州でプレーしている。そして、彼らが欧州で得た経験と自信を代表へ持ち帰り、日本代表は格段の進歩を遂げている。1998年以降、欠かさずW杯に出場し、直近の2大会で続けてグループステージを突破しているのがその何よりの証拠だ」

――日本で「これは素晴らしい」と思った選手は?

「フリューゲルスで一緒にプレーした選手では、華麗なドリブラーのマエゾノ(前園真聖)、攻守に貢献したヤマグチ(山口素弘)ら、対戦した選手では素晴らしいパサーだったナカタ(中田英寿、当時ベルマーレ平塚)、屈強で闘志溢れるCBだったアキタ(秋田豊、当時鹿島アントラーズ)らだね」

フリューゲルス消滅はとても残念だった

――あなたがブラジルへ帰国してパルメイラスへ復帰した後の1998年末、横浜フリューゲルスはスポンサーの経営不振のため存続が難しくなり、横浜マリノスに吸収合併されました。この知らせをどう受け止めましたか?

「スポンサーが経営難に陥っていたことは全く知らなかったから、とても驚いた。僕はフリューゲルスの自由奔放な雰囲気が好きだったから、非常に残念に思った」

――フリューゲルスは、最後の大会となった天皇杯で「奇跡の優勝」を遂げました。

「選手たちが『クラブが消滅する』という最悪の事態に直面しながら、大きなショックを乗り越え、強敵を次々に倒して偉業を成し遂げたことに驚き、感動した。僕も、フリューゲルスという素晴らしいクラブでプレーできたことを誇りに思う」

――生まれ育ったのは、リオ郊外のノーヴォ・イグアスーですね?

【次ページ】 フラメンゴ時代のジーコに憧れた

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