巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
ドラフト2位と4位がまさかの指名拒否でも…ドラ3・落合博満「カネは問題じゃない」“25歳のルーキー”はこうしてロッテに入団した
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2023/08/13 11:06
1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満
1本のホームランが腐りかけた男を甦らせる。直後にイースタン新記録の5試合連続アーチと格の違いを見せつけ、ファームで34試合に出場しただけで、11本塁打を放ちホームラン王に。後期には一軍で起用されるようになり、シーズン第1号は代打で鈴木啓示(近鉄)から放った。57試合で打率.283、15本塁打というまずまずの成績を残し、「ファームの11本はお金になりませんでしたが、一軍での15本はお金になりました。しかし、これも11本のお陰です」なんてらしいコメントを残した背番号6は、翌81年開幕戦に「7番二塁」で先発出場。これが、落合にとってプロ3年目にして勝ち取った初の開幕スタメンで、いきなり3安打を放ってみせた。
ロッテが優勝を飾った前期シーズンは、打率.317、15本塁打、45打点でホームランと打点はチームトップ。“史上最強の6番打者”と称され、ソレイタ(日本ハム)やケージ(阪急)の外国人パワーに挑む、無名の国産大砲の出現に野球ファンは驚いた。空席の目立つ川崎球場だったが、左翼場外へ150メートル弾、右翼席にも軽々とスタンドインさせる図抜けたパワーは、「ロッテのポパイ?薄給の怪力バッター」(週刊新潮81年7月23日号)、「ニックネームは“孫悟空”。重いバットを如意棒のように軽々と振りまわす」(週刊ポスト81年8月28日号)とマスコミの間でも話題になり始める。
1981年、落合博満の底知れぬ才能は、ついに開花しようとしていた。
その時だ。カクテル光線に照らされた超満員の後楽園球場に、ひとりの男が、颯爽と出現する。
“長嶋二世”と呼ばれるゴールデンルーキー、巨人の原辰徳である。
<続く>